講演録

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 土井淑平 講演 
『アメリカの世界軍事戦略と沖縄普天間基地の移設問題』

目次

 

三 琉球処分と沖縄民衆の闘い


1 鳩山政権の普天間移設案は琉球処分の最新版


 沖縄普天間基地の移設先をめぐる鳩山政権の持って回った辺野古回帰案と徳之島分散案を指して、わたしは冒頭で“琉球処分”の最新版であると断言しましたが、この“琉球処分”の意味については、年表4「琉球処分」を参考に、沖縄の歴史を駆け足でたどりながら、多少の解説を付け加えておく必要あります。

 

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 もともと、琉球は日本に組み込まれるまでは自由な独立国で、琉球王国が成立したのは日本の足利時代に当たる1429年でしたが、西方の超大国である中国の皇帝から柵封(さくほう)という俸禄をもらい、いわば臣下の礼を尽くして帰りには沢山のお土産をもらう、いわゆる柵封国家でもありました。
しかし、1609年(慶長14)、徳川家康から琉球征伐の許可をもらった薩摩藩の島津家久が、3000余の兵と100余隻の船という大軍をもって琉球王国を侵略し、尚寧王を捕虜にして薩摩に連行しました(“第1次琉球処分”)。薩摩藩は莫大な貢納を取り立てる体制をつくり、奄美以北を藩領としましたが、琉球は中国との柵封関係も維持したので、日本と中国のいずれにも従属することになりました。
 それから250余年後の1868年に明治政府が成立し、1871年(明治4)の廃藩置県でも鹿児島県の管轄地にとどまったものの、琉球を日本防衛上の要衝として確保するため、明治政府は翌1872年(明治5)に琉球を鹿児島県の管轄からはずして琉球藩とし、1879年(明治12)には内務郷・伊藤博文の差金で軍隊を派遣して首里城を占領、薩摩と清国への両属関係を清算して日本の版図に組み込んで、いわゆる琉球処分を断行し琉球藩を沖縄県と改名したのです(“第2次琉球処分”)。
 この琉球処分の過程で明治政府は日本の軍隊を沖縄に駐留させ、1880年(明治13)から皇民化教育にも着手し、いわゆる天皇の御真影を県下の中学校や師範学校に下賜して、軍事教練や神道の布教を進めました。沖縄の古歌謡を集成した『おもろさうし』に「殺す」という言葉がないといわれるように、もともと沖縄の伝統文化は平和志向の文化で、およそ戦争には馴染みがなかったのですが、日本軍の駐留の開始は沖縄の基地化の伏線となって、のちの沖縄戦の悲劇の種を蒔く発端にもなりました。
 遅ればせに、沖縄に徴兵令が適用されたのは1898年(明治31)ですが、これによって日露戦争(1904年、明治37)では、沖縄からも「天皇の忠良なる臣民」として出征兵士を送り出しています。皇民化運動の1帰結は、1940年(昭和15)に沖縄で起こった方言撲滅運動です。沖縄に対する差別扱いが言語に限らず、姓名の呼び方や沖縄芝居や舞踏の制限など、日常生活のさざまな分野と風習に及んでいたことも、忘れてはなりません。
ここで、ちょっと前の年表1「戦後の日本と沖縄」をもう一度開いて下さい。1945年8月6日は広島に、3日後の8月9日は長崎に原爆が投下され、日本は8月15日にポツダム宣言を受け入れて無条件降伏しました。1946年(昭和21)に制定された日本国憲法は琉球諸島の住民には適用されず、それゆえ沖縄の住民はアメリカの軍事占領下で、憲法がうたった基本的人権を享受することもできませんでした。
 のみならず、1947年(昭和22)に昭和天皇・裕仁は宮内庁御用掛の寺崎英成を通じて、アメリカによる沖縄をはじめとする琉球諸島の軍事占領は「日本に主権は残存させた形」で「25年から50年、ないしそれ以上」の長期にわたることを希望している、といういわゆる「天皇メッセージ」なるものをアメリカ側に伝えているのです。これが沖縄の長期占領と軍事基地化というアメリカの政策決定者の琉球処分に影響を与えたことは言うまでもありません。
 それだけではなく、吉田茂・日本全権とダレス・米政府特使による1951年(昭和26)のサンフランシスコ講和会議で、対日平和条約と日米安保条約(旧安保)が調印されましたが、1952年に発効した対日平和条約は第3条で琉球諸島の行政・立法・司法権はアメリカ政府に委ねると規定したのです。つまり、沖縄は本土から分断されて切り捨てられたわけです(“第3次琉球処分”)。
 それだけではありません。少しあとで取り上げますように、1960年代末~70年代初頭の沖縄の民衆の願いを込めた祖国復帰運動は裏切られてしまい、屋良主席が調印式への出席を拒否したことにも象徴されるように、なるほど沖縄の施政権は日本に返還されたとはいえ、どかーんと米軍が居座ったまま基地が維持どころか強化されることになったという意味で、またしても沖縄は本土から見捨てられてツケを支払わされるハメとなりました(“第4次琉球処分”)
 琉球王国から大和世(ヤマトユー)、戦後はアメリカ世(ユー)、復帰後また大和世(ヤマトユー)になって、それぞれときの為政者の悪政に苦しめられたきた沖縄ですが、近年の沖縄普天間基地の移設問題における自民党政権や民主党政権の辺野古回帰案や徳之島分散案は、まさしく赤っ恥の上塗りのごとき“琉球処分”の最新版(〝第5次琉球処分〟?)だ、とわたしは断ぜざるを得ません。
 菅直人が民主党代表に決まったときの会見だったか、たしか「いま琉球処分の本を読んでいる」などと格好をつけて言うのを聞きましたが、自分で前政権の“琉球処分”の続行を宣言しておきながら、よくそんな恥じ知らずなことが言えるものだ、とわたしは呆れ返りました。どこまで政治家のツラの皮は厚いのでしょうか。

 

2 沖縄返還による米軍基地の維持強化と生活破壊


 アメリカ占領下の沖縄はまぎれもない軍事植民地でした。なるほど琉球政府なるものはありましたが、その首席は沖縄の植民地総督たる米高等弁務官によって任命され、琉球政府は米大統領の行政命令に服さねばなりませんでした。米軍統治下の沖縄占領支配は、「軍政府はネコ、沖縄はネズミである。ネコの許す範囲内でしかネズミは遊べない」、というジェームズ・ワトキンス海軍少佐の言葉に象徴されています。
 かつて、イギリスの植民地から自由や平等を掲げて独立をかちとり建国したアメリカの痛烈な皮肉というべきか、アメリカの軍事植民地たるここ沖縄には自由も民主主義も人権のヘチマもなく、ありとあらゆる国際法を踏みにじる蛮行が繰り返されてきました。ありとあらゆる国際法というのは、さしあたりアメリカ自身が中心になって作成した1945年の「国連憲章」の「非自治地域に関する宣言」、1948年の国連総会で採択された「世界人権宣言」の各条項、1960年の国連総会で採択された「植民地独立付与宣言」(別名、植民地解放宣言)を指します。
 このうち、「植民地独立付与宣言」(or植民地解放宣言)は、「外国人による人民の征服、支配及び搾取は、基本的人権を否認し、国際連合憲章に違反し、世界の平和及び協力の促進の障害になっている」と宣言しています。この植民地解放宣言の国連採択から1年後の1962年、琉球政府立法院がこの宣言を盾に取って、米軍統治が「国連加盟国たる日本の主権平等を無視している」として、「日本領土内で住民の意思に反して不当な支配がなされていること」に、国連加盟国および国連本部の注意を喚起する決議を満場一致で決議したのも当然です。
 さらに国際法の観点から付け加えると、沖縄占領と同時に米軍は国有地だけでなく民有地も併せて、広大な土地を軍用地として接収して無償で使用しました。この米軍が接収し占有した土地の4割強は民有地ですが、米軍の占有はハーグ陸戦規則第49条の私有財産の尊重義務原則および没収禁止原則に違反しています。
 ここで、また年表1を見てほしいですが、1949年に中華人民共和国が成立し翌1950年に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカは沖縄における軍事支配を維持強化して、米軍が任命する主席による琉球政府をつくりましたが、沖縄の民衆は生活権を侵害する軍用地をめぐって、いわゆる“島ぐるみ闘争”に立ち上がりました。これは“第1次沖縄闘争”とも呼ばれるものです。奄美諸島は1958年に施政権が日本に返還されましたが、沖縄諸島では米軍占領が続きます。
 その後、1960年に日米安保条約の改定が日程に上り、あの日本全土を揺るがす安保大闘争が闘われることになるのですが、この安保改定ではそれまでの日米行政協定を引き継いで日米地位協定も結ばれました。あとで取り上げるように、それは治外法権の特権を米軍と軍属に与え、今日までおびただしい犯罪行為や環境破壊を許容する深刻な基地問題の免罪符になっているものです。
 1969年11月の佐藤栄作・ニクソンの日米共同声明、そして、1971年6月に調印された沖縄返還協定に基づき、沖縄の施政権が日本に返還されたのは1972年5月です。だが、「日米共同声明路線による沖縄協定粉砕」をスローガンに、「アメリカの軍事支配を排除し、基地撤去による反戦平和、県民自治を要求する沖縄県民の全世界に向けた意思表示」の大会宣言をもって、10万人の沖縄の労働者や市民が参加した1971年5月の「5・19ゼネスト」こそ、日米共同声明と沖縄返還に対する沖縄民衆の回答でした。
 祖国復帰運動は“第2次沖縄闘争”と呼ばれるものでもありましたが、日本復帰は沖縄県民が希求する悲願だったので、その実現の喜びで沖縄中が湧き返っておかしくないのに、あまりにも復帰の内実が県民の願望を裏切るものだったため、急激に不満と批判が高まったのです。琉球政府の屋良主席も沖縄返還協定の調印式への出席を拒否し、沖縄最大の復帰運動の推進母体だった沖縄県祖国復帰協議会が調印の当日、首都の那覇で激しい抗議デモを行なったことは、まことに象徴的な出来事でした。
 なるほど、施政権返還は一歩前進だとしても、本来なら撤去さるべき米軍基地が維持強化され、アジア侵略など今後の戦争に向けた基地に固定化されて、新たな禍根をつくるので百歩後退だとして、社会学者でのちに沖縄県知事になる大田昌秀が、沖縄返還を「第4の琉球処分」(“第4次琉球処分”)と批判したのは当然です。
 沖縄返還交渉を前にした1967年の国会で佐藤栄作首相が「保有もしない、製造もしない、持ち込ませない」のいわゆる“非核3原則”を表明しました。それが40年以上のちの民主党政権のもとで、外務省有識者委員会が核持ち込み容認の3密約を認定して、長年国民をあざむいてきた歴代政府や外務省幹部の大ウソを白日のもと明るみに出し、これまでの政府見解が公式に否定されたたことは、みなさまも新聞等でご存知の通りです。
 ただし、有識者員会が沖縄返還を決めた1969年11月の日米首脳会談で、佐藤首相が返還後の有事核持ち込みを米側に約束した合意議事録の存在を認めながら、いわゆる「沖縄核密約」は「必ずしも密約とは言えない」としたのは、正直言って納得がいかない部分です。
 さて、沖縄返還から40年近く経っていますが、その結果いったい沖縄では何が起きているのか。1995年9月に沖縄県北部で12歳の少女が沖縄駐留米兵3人に拉致されレイプされた集団暴行事件は、当時の新聞やテレビで記憶されている方もおられるかと思います。この事件は米軍が身柄引渡しは起訴後という日米地位協定の第17条第5項(c)をタテに容疑者の即時引渡しを拒否し、あらためて治外法権の日米地位協定の問題点を浮き彫りにしましたが、この陰惨な事件を契機に同年10月には8万5000人という日本復帰後最大規模となる県民総決起集会が開かれ、日米地位協定の改定や米軍基地の整理縮小を強く求めました。これを“第3次沖縄闘争”と名づける人もいます。
 むろん、この沖縄駐留米兵による少女暴行事件は、あくまで“氷山の一角”でして、占領直後はもとより施政権返還後も、幼女や女性への性暴力事件は頻発し、女性の生命や人権は侵され続けています。むろん、これらの性暴力事件だけが問題なのではなく、沖縄県のデータによる表10「米軍構成員等による刑法犯罪検挙数」を見ますと、沖縄返還の1972年5月から2009年12月末までに5634件、このうち562件は殺人・強姦・強盗・放火などの凶悪事件、1026件は暴行・傷害・傷害致死などの粗暴犯でした。

 

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 さきの少女暴行事件に続いて、沖縄で起きている象徴的な出来事をもう一例挙げますと、2004年8月に普天間飛行場のある宜野湾市の沖縄国際大学本館ビルに大型輸送ヘリが激突し爆発・炎上した事故も、わたしたちの記憶に新しいところです。この沖縄国際大学構内へのヘリ墜落事故では、約100人の米兵が普天間飛行場のフェンスを乗り越えて事故現場の沖縄国際大学になだれ込み、大学という民間の私有地なのに現場を封鎖・占拠して立ち入り禁止としたばかりか、捜査当局である沖縄県警の現場検証も拒否したばかりか、宜野湾市の伊波洋一市長も現場への立ち入りを拒否されて、「ここは一体どこの国なんだ」と怒らざるを得ませんでした。
 やはり沖縄県のデータによる表11「米軍の航空機事故の件数」を見ますと、沖縄返還の1972年5月から2009年12月末までに487件、このうち機種別では固定翼機が403件、ヘリコプターが94件、事故の態様は不時着が362件と一番多く、つぎに墜落が43件と続いていて、これら航空機事故による死者は34人、行方不明が25人となっています。(表11)「米軍の航空機事故の件数」/出典:前掲沖縄県ホームページ 基地対策課「沖縄の米軍及び自衛隊基地」

 

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 いま見てきたおぞましい凶悪事件を含むおびただしい数の米兵と軍属の犯罪、そして、航空機の墜落など多発する事故の危険のほかにも、米軍の演習の真下で暮らす子どもたちの教育環境を破壊し住民の生活を侵害する騒音というより爆音被害。米軍演習による膨大な面積に及ぶ原野火災。実弾砲撃やゲリラ訓練による山林破壊や生物種絶滅の危機。米軍の演習や工事による赤土流出と河川の汚染やサンゴ礁などの海域の汚染。ベトナムの枯葉作戦に使われた猛毒の農薬PCBなど有害物質の流出も含めて基地に起因する水質汚染や土壌汚染、といった厄介な問題がつぎからつぎに押し寄せて沖縄の住民を苦しめています。これらに加えて、米軍基地建設による沖縄の貴重な文化財の破壊と消失も挙げなければなりません。
 米軍基地の環境問題で見逃せないのは、米軍が1995年と1996年に沖縄県の鳥島にある射爆場で1520発の劣化ウラン弾の実弾演習を行い、2000年5月に沖縄の空軍司令官が嘉手納弾薬庫に劣化ウラン弾を保管していると認めたことです。この鳥島海域をカツオやマグロの好漁場とする久米島の漁民たちが、鳥島の劣化ウラン弾や不発弾の除去を要求してきたことは言うまでもありません。

 

3 対米追従の地位協定による米軍特権の維持拡大


 さて、ようやくアメリカの治外法権と犯罪免除の特権を許容している日米地位協定または在日米軍地位協定を取り上げるところまできました。かねてより大きな問題だったとはいえ、1995年9月の沖縄駐留米兵による少女暴行事件ほど、沖縄の住民の激しい怒りを呼び起こし、日米安保と地位協定の問題点を見直す重要なきっかけになったものはありません。
 基地の撤去と地位協定の改定を求める圧倒的な県民運動を受けて、沖縄県の大田昌秀知事は同年11月、軍用地の契約更新を拒否している反戦地主の代理署名を拒否しました。最初に契約更新を拒否した反戦地主は、読谷村の楚辺(そべ)通信施設(通称、“象のオリ”)の一角に土地を持つ地主の知花昌一で、1996年4月に使用期限切れの土地の返還を求めて家族とともに立ち入り運動を起こしました。
 周知のように、知花昌一さんは1987年10月に国体会場となった読谷村で、日の丸の旗を焼き捨てて裁判にかけられ有罪判決を受けた反戦平和運動家でもありますが、この日の丸焼き捨ての行動は、あの沖縄戦の最中、チビリガマという読谷村の洞穴で起きた集団自決に象徴される、日の丸・君が代・天皇制への抗議でもあったわけです。チビリガマで集団自決した83人のうち47人は小さな子どもたちだったといい、なかには戦場から読谷に戻った伍長の知花清一さんのように、チビリガマで妻子5人が全員自決していたという胸を打たれる悲劇もありました。
 2001年9月の少女暴行事件はあらためて基地の存在と日米地位協定の問題をクローズアップしましたが、つい最近の昨年11月にも読谷村で米兵によるひき逃げ死亡事件も含めて、沖縄では米兵の犯罪が頻繁に起きていまして、沖縄県の大田昌秀知事も保守系の稲嶺恵一知事も、地位協定改定を日本政府や米政府に訴えてきました。
 この間、沖縄県の要請を受けて、全国知事会や全国都道府県議会議長会、あるいはまた、日本弁護士連合会や日本青年会議所なども、この問題に取り組んできていますが、政府と外務省は対米追従の一貫した立場から地位協定の改定に手をつけることなく、ひたすら地位協定の「運用改善」の彌縫策でその場しのぎの対処に終始してきました。
 沖縄のメディアである琉球新報は、日米地位協定についての政府の基本解釈つまり国会答弁のマニュアルとなる外務省の機密文書「日米地位協定の考え方」を入手し、その全文を2004年1月1日の紙面に詳報、ついで、全文を公開するとともに、「検証 地位協定 不平等の源流」の大型連載を掲載しました。
 この外務省の機密文書「日米地位協定の考え方」は、沖縄が日本に復帰した1973年に作成されたものですが、その増補版が10年後の1983年につくられ、これまた琉球新報が入手して暴露しています。これを見ると、日本の外務省が地位協定の拡大解釈によって、むしろ米軍特権の維持拡大にひれ伏し奉仕している姿が浮び上がってきます。
 それはさきに指摘したなし崩しの解釈改憲や解釈安保改定と同様で、解釈地位協定改定という手法でもって事実上、地位協定を改定というよりも改悪するもので、つくづく日本の政府や外務省は、アメリカ国務省や国防務省の代理店なんだな、いう感を強くします。アメリカがドイツや韓国など他国と結んでいる米軍地位協定に比べても、日米地位協定は不平等極まりないのに、何をか言わんやです。
 ところで、地位協定にも関連して重大な問題は、地位協定に明文規定がない駐留経費の過剰負担です。いわゆる「思いやり予算」は1978年に自民党の黒幕だった金丸信防衛庁長官がブラウン米国防長官との会談で約束したのに始まりますが、これはアメリカ側からオイルショックなどによる財政赤字の解消のため持ちかけられたものです。だが、日米地位協定によると、米軍の維持経費はすべて、「日本国に負担をかけないで合衆国が負担する」(24条)となっていますので、いわゆる「思いやり予算」が地位協定違反であることは明らかです。 
 金丸信がアメリカに買収ないしは恫喝されたのは間違いないことですが、わたしが文献を調べていて驚いたのは、アメリカのCIAが日本の暴力団に資金を提供して協力を取り付け、自民党政権を支えようとしていた事実です。その見返りの1つが歴代の自民党政権による在日米軍への至れり尽せりの資金援助だったわけです。
 ここで、元駐日大使補佐官のケント・カルダーが挙げている在日米軍への資金援助の各国との比較を見ておきましょう。表12「受入国支援によって支払われる米軍海外駐留費の割合」は、20世紀末から21世紀にかけて日本政府が在日米軍の駐留経費の75~79パーセントを負担してきたことを示します。表13「米軍駐留経費に占める受入国負担の割合の変動」からは、サウジアラビアが2度ほど日本を上回る割合で負担したことはあるものの、日本が韓国やドイツに比べても一貫して気前のいい大判振舞いをしてきたことが読み取れます。(表12)「受入国支援によって支払われる米軍海外駐留費の割合」、および、(表13)「米軍駐留経費に占める受入国負担の割合の変動」/出典:ケント・カルダー、武井楊一訳『米軍再編の政治学』(日本経済新聞社、2008年)
 しかも、日本が在日米軍に対して行なっている大規模な財政支援のうち、およそ4分の3が直接支援で、その割合は韓国をはじめアメリカが前方展開しているすべての国よりはるかに高く、表14「受入国支援の負担分担状況の国別比較」でも明らかなように、日本は他国ではわずかの基地賃貸料・労働支援・光熱水道費・新施設建設費まで直接支援しているのです。その結果、日本は米軍駐留経費の74パーセントを負担し、支援総額のうち直接支援が73パーセントを占めて、韓国その他に比べても呆れるほどの至れり尽くせりのサービスぶりです。(表14)「受入国支援の負担分担状況の国別比較」/出典:前掲カルダー『米軍再編の政治学』
 いわゆる「思いやり予算」も含めた日本政府の在日米軍への直接支援と間接支援の総額は44億ドル(5300億円)の巨額にのぼりますが、これは世界全体の米軍駐留経費84億ドルの半分以上という過大な負担です。これでは、米国防総省が「アジア太平洋戦略の枠組み」の報告のなかで、「日本の高額支援のおかげで、米軍を配備するのに、日本は米国内も含めて世界でもっとも安上がりの場所になっている」、とほくほく顔なのも当然ではありませんか。
こうした世界でも群を抜くダントツの日本の対米軍事援助は、アメリカにとって在日米軍なかんずく沖縄基地をまたとない、おいしい金ヅルにしているので、手放せないということです。つまり、海兵隊の大半はグアムに移転させるが、金ヅルである沖縄の基地はカタチだけでも残して、都合のいい米軍の資金ポンプとして今後とも日本からカネを吸い上げたい、というハラなのです。
 最近発表された日本の債務残高は国債と借入金・政府短期証券を合わせて、過去最大の883兆円、国民1人当たりにして693万円です。カチカチ山のように背中で真赤な火が燃え盛っているのに、いったい、どこから、あんなに巨額の財政援助をアメリカにする余裕が出てくるのか、いい加減にしたらどうか、ナメられてんじゃないよ、と言いたくなるのはわたしだけではないはずです。

 

4 日米安保の破棄と米軍撤退を目指して


 これまで見てきたような幕末と明治の初めから数次にわたる琉球処分、並びに、沖縄における基地ゆえの苛酷な状況を直視するならば、一刻も早くこの沖縄の過重な負担を解消すべく、微力を払わねばならないと考えるのはわたしだけではないはずです。沖縄の基地を維持・強化してきたのは、アメリカ政府と日本政府の共犯の結果であり、そのような政府を容認というよりも支持してきた、わたしたちの責任でもあると自戒しなければなりません。
まず、わたしたちは太平洋戦争の敗戦から65年、米ソ冷戦終結から20年も経過した現在、世界と日本をめぐる国際情勢が大きく変わったことを明瞭に認識し、すでに改定後半世紀にもなる日米安保あるいは日米同盟を根本から見直し、沖縄基地の撤去をはじめと在日米軍の撤退を課題に据えて、アメリカ政府と腰の座った交渉に乗り出す時期だと考えます。
 なかんずく、普天間基地は宜野湾市の25パーセントの面積を占め、しかも市街地や住宅密集地のど真中にあるばかりか、基地の周辺には学校や病院や福祉施設が点在し、8万8000人の市民が生命の危険と基地の爆音のなかで生活している、という世界一危険な基地の現実はしっかり見据えねばならず、1日でも早い撤去が求められていることは言うまでもありません。
 しかしながら、普天間基地から海兵隊を撤退させて宜野湾市に返還する代わりに、名護市の辺野古を埋立てて新たな基地をつくるというのでは、なんら沖縄の負担軽減にならないばかりか、誰が見てもゼロサム・ゲーム以外の何物でもありません。それゆえ、島から基地を追出すという沖縄の人たちの切なる願いを汲み取って、このような堂堂巡りのゼロサム・ゲームに加担してはならない、とわたしは考えます。やはり、あくまで国外つまり米本土か米国領― それがいますぐは無理だというなら、最低でも県外を追求すべきです。その場合、県外だからといって、徳之島移設のような琉球処分は許されない。
 沖縄だけでなく日本から在日米軍の基地がなくならない限り、米軍の治外法権を許している日米地位協定の改定が焦眉の課題であることは、さきに繰り返し強調した通りです。わたしたちの身近なところにも在日米軍と地位協定の問題はあります。それは鳥取県境港市の自衛隊美保基地と“象のオリ”のことです。沖縄県読谷村の楚辺通信施設にあった“象のオリ”は、いまなお青森県の三沢基地と自衛隊の美保基地にありまして、諸外国の一般海外放送や軍事通信を傍受しています。この美保基地が数年前から米軍と共用になり、日米地位協定のため地元の県知事も自治体も関与できなくなっていることを、きょう社民党島根県連副代長の阪本清の指摘で知りました。
 半世紀余もアメリカ一辺倒の対米追従できた自民党政権に代わって民主党政権が成立し、日米の「対等なパートナーシップ」や「常時駐留なき安保」をうたう人物が政権のトップの座に就いたので、わたしもほんの少しばかりの変化に期待しましたが、本当の意味での信念も政策も持ち合わせず、オバマにちょっぴりアタマをなでられるとドドッと崩れるだらしない人たちだと知って、それは驚きを通り越して何とも情けない気持です。
 むろん、日米合意を至上命令のように考える民主党政権は自民党政権と同様、市民運動にいくらかかかわったことがある菅直人の政権といえども、“アメとムチ”の政策でもって沖縄の自治体に水面下で積極的に介入し、汚い手を使ってでも辺野古回帰案の実現に最大限のエネルギーを投入することは、間違いありません。そのとき、わたしたちは世論調査や選挙結果で自信をつけた菅直人の本当の素顔を直視することになるでしょう。わたしは声を大にして言いたい。小泉純一郎に騙されたように、菅直人に騙されてはいけない、と。
 たしかに敗戦と占領の経験の後遺症は否定できないとはいえ、わたしたち日本人のアタマは刷り込みが効いて、いつのまにかすっかりアメリカナイズされ、なんでもアメリカさんの言うことには従わないといけない、といった対米追従の固定観念に縛られてしまっていすが、日米安保も日米同盟も動かし難い不滅の霊魂でも永遠の真理でもありません。
 日米安保を見直すといっても、だいいちアメリカが交渉に応じないし、かりに応じても見直しを認めないだろう、と言われるかも知れませんが、日米安保条約の第10条を読んでみて下さい。交渉に応じるも応じないも、認めるも認めないもない、もともとこの条約は10年の時限立法であって、どちらかの国がこの条約を終了する意思を通告すれば、その通告の1年後には自動的に条約は終了するのです。
 わたしは、このさい、安保条約の破棄を目指す闘いもしくは取り組み、さもなくば、米軍の基地も兵士の駐留もない新安保条約を結ぶべく、アメリカと本格的交渉をする政府が必要だと痛感します。げんに、これまでにも沖縄からは安保破棄の主張が出ましたし、いままたこの主張が再燃するきざしがあることを見落としてはなりません。名護市民や沖縄県民の意思を無視して、普天間基地の移設先として辺野古の埋め立てを強行しようとすれば、この安保破棄の主張が沖縄で強まりこそすれ、弱まることはないでしょう。
 保守系の仲井真弘多沖縄県知事ですら、民主党政府にもアメリカ政府にも、「辺野古への移設は受け入れ困難」と再三表明しています。沖縄の県民や名護の市民が、今秋に予定されている沖縄県知事選と名護市議選で明確な回答を出すことは間違いない、とわたしは確信しています。それは①島ぐるみ闘争②祖国復帰運動③少女暴行事件後の基地撤去運動に続く、戦後の“第4次沖縄闘争” ― というよりも、元読谷村長で現参議院議員の山内徳信のいわゆる〝戦後沖縄最大のレジスタンス〟(雑誌『世界』7月号)に発展する可能性がある― いや、それはもう始まっているのかも知れない、と固唾を飲んで見守っているところです。
 かつて、1970年代初めの沖縄施政権返還つまり〝第4次琉球処分〟で裏切られた沖縄の知識人のあいだで、沖縄自立論ひいては琉球独立論がたたかわされ、そのなかから琉球独立党まで出現したことを記憶している人は少ないかも知れませんが、いままた新たな琉球処分(〝第5次琉球処分〟?)に直面して、沖縄は本土から分離して自己決定権を持つべきだ、とする沖縄自立論や琉球独立論が再燃するきざしが感じられます。
 ここで、あらためて考えてみなければならないのは、1960年のいわゆる60年安保闘争です。60年安保闘争は新旧左翼の交代に焦点が当てられがちでしたが、わたしはこの闘争には受験浪人をしていて乗り遅れて直接参加できなかったとはいえ、あの大闘争も本来は戦後のアメリカの占領と従属から脱却して日本が自立するため、日米安保の破棄を目指して学生や市民や労働者が立ち上がったのではなかったかということです。
 それから何と半世紀の50年も経つが、その後の日本は驚異的な経済成長をとげ、たしかに経済的には豊かになったとはいえ、自民党や民主党の政治家だけでなく一般庶民も含めて、情けないかな日本人のアタマは政治的にも文化的にもアメリカに占領され続けているかのようです。あの60年安保の時点で時間が停止したのではなく、止まっているとしたらその人の時間であって、現実には今日の沖縄基地と在日米軍の存在として継続し、それは日本の対米追従の外交政策の根幹にかかわる問題なのだ、という歴史認識と現状認識をあらためて喚起すべきではないかと考えます。
 最後に一言、わたしは沖縄の歴史と現状にかんがみ、現実問題としては米軍の構想通り、沖縄の海兵隊のグアムに移転もやむなしとは思うものの、グアムのチャモロ人を含む太平洋の島々の先住民たちが、アメリカをはじめとする欧米列強の太平洋制覇によって16世紀以来、さんざん痛めつけられてきた数世紀に及ぶ略奪と破壊の歴史を振り返ると、まことに複雑な気持になり率直に支持できない気持になります。むろん、世の中、筋論だけでは解決しないことも承知しているつもりですが、沖縄の海兵隊は米本土に移転するのが本来の筋だ、と考えざるを得ません。
 グアムはスペインの略奪のあとアメリカの軍事基地を推しつけられ、チョモロ人の伝統的生活は圧迫され存亡の危機にあります。現在、チョモロ人はグアムの人口の4割くらい、言語では英語に圧倒されてチョモロ語は2割ちょっとに減っています。グアムで生まれ育ち老人となったチャモロ人がグアムを捨てて、カリフォルニアやハワイに移住しているそうで、グアムは固有文化を失いつつあると言っていいかと思います。
 沖縄出身のジャーナリストで政治学者の吉田健正の報告によると、グアムの先住民は沖縄海兵隊の移転による基地拡張がチャモロ文化や子どもたちの将来への懸念を表明し、テレビのアナウンサーは「この自然と史跡に恵まれた美しいグアムに、新たな隣人と巨大な大砲が到着しようとしている」と語っています。
つくづく、世界を覆うアメリカの軍や核の傘の下で、まことにこの世は真っ暗闇だ、と考えざるを得ません。いま、中南米やイスラム世界で脱米の潮流が台頭していますが、わたしが拙著『アメリカ新大陸の略奪と近代資本主義の誕生』でも強調しましたように、対米従属からの脱却は21世紀の日本と世界の課題であると確信します。

 

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