講演録

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 土井淑平 講演 
『アメリカの世界軍事戦略と沖縄普天間基地の移設問題』

目次

 

補足 関連する問題に寄せて


1 大阪府の橋本知事の発言について


 大阪府の橋下徹知事は、沖縄の負担を軽減するため普天間の移設先として政府から相談があれば、関西空港での受け入れの議論に入っていく、との考えを明らかにしました。この発言は大手マスコミによってほとんど黙殺されましたが、わたしは非常に勇気ある発言であると評価したものです。
 ところが、その後5月2日の近畿知事会議で、橋下知事が「(日米合意によって)普天間飛行場の移設先は辺野古以外ありえなくなった。我々も沖縄県民の皆さんに、感謝や申し訳ないという念とともに、受け入れの説得をすべきだ」と主張しているのを新聞で読んで、なんじゃこりぁあとがっかりしました。わたしがいささか買いかぶっていた分だけ興ざめになった次第ですが、橋下の錯誤は肝心の沖縄への相談も了解もないまま、さきの日米合意をもってあたかも天孫降臨のごとく、辺野古移設を既成事実と決めつけていることです。
 吉田憲正はアメリカが首都ワシントンの周辺に強大な基地を配している例を引き、「そもそも、日本がその安全保障のために米軍基地を必要とするなら、政治・経済・文化の中心である東京やその周辺に移すべきであろう」と言っています。実際、民主党政権の幹部連中が言うように、それほど抑止力が必要で沖縄の負担を軽減したいなら、嫌われものの原発を東京にの議論ではありませんが、たとえば辺野古ではなく東京湾を埋めた立てて普天間の移転先にしてもいいはずなのに、そういった提案や議論をまったく耳にしません。
 原発の立地は大電力の消費地ではなく、もっぱら辺境の過疎地に押し付けられてきましたし、原発の副産物たる放射性廃棄物の処分候補地も同様です。ひるがえって、危険な原発がそれほど安全だと言うなら、広瀬隆の逆説的な著書のタイトルではないが、「東京に原発を!」という主張が出てきてもおかしくないし、あるいはまた、核廃棄物の貯蔵も安全で問題がないなら、東京の電力会社の本社ビルの下半分を貯蔵施設してはどうか、といった槌田敦の反語的な提案も考慮してしかるべきだ、となるはずではありませんか。

 

2 ヘビに睨まれたカエルのごとき日本の政治家たち


 わたしは鳩山や菅をはじめ民主党政権の閣僚にしろ、あるいはまた、政府の閣僚ではないものの自治体の首長の橋本にしろ、要するに日本の政治家や官僚や大手メディアも含めて、日本人の政治的レベルも知的レベルもはなはだ貧しいと考えざるを得ません。端的に言って、日本の政治家・官僚・大手メディアは、アメリカに刷り込まれているというか飲み込まれています。これではアメリカにナメられても仕方がないですね。
 そのナメられている一例を挙げますと、驚くべきことに日本政府のトップや准トップは、アメリカの差し金で替えさせられているようなのです。小池百合子議員が雑誌『正論』2002年7月号で書いているところによると、1994年2月に細川護熙首相が訪米したさい、アメリカ側から北朝鮮問題で竹村正義官房長官を切るよう求められたそうで、アメリカに距離を取っているように見られた細川ですら、これに従って竹村を切り自らも政権を投げ出す結果になりました。あの自民党政権に取って代わったはずの細川政権ですらこういう有様です。
 わたしはこのことを元防衛大学教授の孫崎亨(うける)の本で読んで初めて知ったのですが、これは日本の政治家のアタマがあたかもヘビに睨まれたカエルのように、アメリカに占領され従属していることを証拠立てる1例です。こういうことは、自民党政権下では日常茶飯事のように起きていたのではないか、と考えてもちっともおかしくない。要するに、日本の政治家はアメリカのゴンタからすれば御しやすい赤子のようなもので、あまりにもウブでおよそ恥じというものを知る年齢ではないわけですね。
 民主党の菅政権が発足後ただちに、肝心の沖縄を切り捨ててまで、日米合意を尊重すると表明したのも、やはりアメリカにヘイコラした細川政権の2代目のようなもので、自民党政権と寸分変わらず寄らば大樹の陰の精神構造から、アメリカを自らの政権維持の保身術の担保としたかったからでしょう。

 

3 普天間移設とグアム移転を考える本


 最近 ― それも今年になってから、普天間移設とグアム移転についての読みやすい本が相次いで2冊出ました。1つは、吉田健正の『沖縄の海兵隊はグアムへ行く』(高文研)、そして、もう1つは小川和久の『この一冊ですべてがわかる普天間問題』(ビジネス社)です。
一方の吉田健正は沖縄出身の国際ジャ-ナリスト兼政治学者で、『沖縄の海兵隊はグアムへ行く』は自ら帰郷して沖縄に立脚点を起き、しかもアメリカの国防総省など米軍の資料を分析して、沖縄海兵隊のグアム移転がすでに実施段階に入っていることを指摘する好著です。
 他方の小川和久は今月下旬に鳥取の経営者に招かれて講演しますが、新聞やテレビにも時折出る軍事アナリストで、まるでフィクサーでもあるかのように、自民党政権や民主党政権の幹部と接点を持ち、沖縄にも足を運んで自治体幹部と接触したり講演したりして、普天間問題になんらかのかたちで関与してきた人物で、普天間移設をめぐる日本政府や防衛省の内部動向については参考になる簡便なブックレットです。
 しかし、わたしは普天間移設の経緯は参考にしても、その見解には賛同できません。なぜなら、小川自身はアメリカの軍事的プレゼンスと日本の安全保障政策を優先する観点から、「普天間飛行場の県外移設も国外移設も無理で、選択肢は県内移設しかない」「沖縄県民に納得してもらうことは可能だ」との見解の持ち主で、要するにアメリカと日本のための沖縄は泣いてくれ、ということですね。
 さすが、現在、沖縄で活動している吉田健正は、こうした小川の姿勢の本質を見破り批判しています。すなわち、2007年に出した吉田の前著『「軍事植民地」沖縄』(高文研)の冒頭で、小川の「沖縄の連中はいい加減にせい」「自分たちで解決策を示せ。だんだん本土側がいらだってきている」といった発言を取り上げて、「そもそも日本政府が押しつけた問題に『解決策』を示すのは、沖縄県民の責任だろうか」、と反論しているのは正解です。

 

4 2大政党制か多党制か、それとも第3の道は?


 松江講演のフリートーキングで、2大政党制か多党制か、といった問題が出ましたので、私見を申し述べます。かつて1990年代前半 ― くわしくは1993年から94年にかけて ― 非自民連立政権だった細川政権の一時期に、2大政党制か多党制かの論争がありました。わたしはこの論争では新党さきがけの竹村正義の「穏健な多党制」の主張が妥当だと考えていましたが、昨年秋に亡くなった旧社会党(のちの社民党)の田英夫が2大政党制のドグマに反対だったのもうなづける話です。
 なぜ、わたしが2大政党制に賛成できないかと言えば、シロかクロかといったテレビのクイズ番組でもあるまいし、そもそも選択肢が2つしかないというのがおかしな話です。なるほど、2大政党制は政権交代を可能にする政治システムかも知れませんが、まず2大政党制のもとでは2つの政党が、国民におもねて票の獲得や政権の維持のため、お互いに真似をし合いよく似た相似形の政権となってしまいます。今回の沖縄普天間問題で、民主党政権が社民党を切り捨てて、自民党政権の辺野古埋立案に先祖帰りしたのが、顕著な1例と言えます。最近、消費税の問題で民主党と自民党が、ほとんど見分けがつかなくなっているのもそうです。
 もう1つ、2大政党制のもとでは国民の多様な欲求や選択が切り捨てられ、しばしば重要な問題が埒外に置かれます。たとえば、地震列島の上に立つ日本の原子力発電所の是非の問題などが典型です。かつて社会党は総評とともに原発に反対する姿勢をとっていましたが、現在の民主党は自民党となんら変わらず原発推進であるため、長く地域を分断し国論を2分してきた原発の是非が政党や議会のレベルでは、まったく取り上げられません。たしか、ことしの連休でしたが、民主党の政権幹部たちが原発のセールスに外遊しているニュースをテレビで見まして、この連中はいったい何をやってんだと思ったものです。2大政党制に関連して言うと、小選挙区制は2大政党に有利な制度で、少数意見や少数政党を潰すためにあるようなものですから、わたしはこれからしておかしいと考えます。
 つまり、2大政党制だけでなく議会制度や政党制度そのものに限界がある。わたしはさきに2大政党制よりも多党制の方が好ましいと申しましたが、それはあくまで政党制度を前提にしたその枠組みのなかでの選択としてです。多党制も政党制度である以上、2大政党や1党独裁への道をはらんでいます。ナチス・ドイツによる迫害を逃れてアメリカに亡命したドイツ生まれのユダヤ人の政治思想家ハンナ・アーレントは、「1党独裁は、一般的にいえば、国民国家の発展の、特殊には、多党制の発展の、それぞれ最終段階にすぎない」と言っています。
 近代史において、議会制度や政党制度とほとんど同時代に出現したのが、評議会制度です。この評議会制度に言及する余裕はありませんが、歴史を見渡すと必ずしも政治イコール政党政治ないしは政党制度ではない。近代の間接民主主義の議会制度や政党制度が政治のアルファでありオメガではない。わたしなどの世代にはついこのあいだのように思える20世紀に、より直接的な民衆参加の政治機関として評議会制度があった、ということだけ申し上げておきます。
 わたしは、今日の議会制度や政党制度の欠陥を是正する現実的かつ具体的な政治システムとして、地方レベルと国政レベルのいずれにおいても、重要な問題では市民の発議権と住民投票の制度を導入するよう提案したい。これはたんなる観念論や理想論ではありません。いずれも、永世中立国にして直接民主政の母国のスイスで盛んに行なわれている政治システムです。スイスでは「イニシアテイブ」と呼ばれる発議権は市民の直接立法を意味し、州や連邦の規定に従って一定の有権者の署名を集めれば、法律の制定や憲法の改正などを発議でき、「レファレンダム」とよばれる住民投票にかけられます。住民投票はドイツでも行なわれています。
 それで思い出すのは、わたしが拙著『都市論』(三一書房、1997年)の第十章「都市とエコロジー」4「都市の分散と地域の自立」でも注目して言及したように、沖縄県議会で日米地位協定の見直しと基地の整理縮小に関する県民投票条例を可決され、それに基づいて1996年9月に実施された住民投票で圧倒的多数の住民が見直しと縮小を支持したという事実です。いまのところ、原発建設反対の住民投票も同様ですが、住民投票ないしは住民投票条例に法的拘束力がないため、いわば“決め手”の有効性を欠いているとはいえ、明治以来の中央集権的国家体制を地方分権的なものに組み替え、本当の意味で住民自治を確立するためにも住民投票の法制化が必要だと考えます。
 昨今のように、わたしたちが世論調査の対象や道具になるのは、あくまで客体としての国民であって、国民が主体として政治に参与しているわけではありません。そんなマスコミによって間接的に操り人形のように操られるよりは、むしろ自らの意思を主体的かつ直接的に押し出す住民投票の制度を導入した方がいい、というのがわたしの年来の主張なのです。ですから、基地や原発など重要な問題は、市民の発議権と住民投票の制度に委ねるべきで、これこそが現代の議会制度や政党制度の限界と閉塞を打破する“第3の道”なのだと言いたい。
 きょうは、これ以上この問題にも言及できませんが、政党制度なかんずく2大政党制の限界はアメリカを見ればはっきり分かると思います。アメリカでは民主党か共和党のいずれかに担がれ、莫大な選挙資金を獲得する政党の候補者でないと大統領になれない。つまり、アメリカの大統領はいわば2大政党独裁制のもとでの、巨大なパワーエリートないしは巨大な金権寡頭制の産物といえます。2人の頭目のいずれかに賛成の票を入れる以外に、国民の選択肢はあり得ないということです。最近、イギリスで保守党と労働党の2大政党制の限界が露呈し、第3党の自由民主党が躍進したのは注目すべき動きで、2大政党制の信者は少し頭を冷やして考え直してみるべきだと思います。