=講演抄録=
『3.11と科学者の責任 ― 湯川秀樹から吉本隆明まで』

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 日時:2012年5月17日(木)18・30~21・00
 場所:劇団展望(東京・阿佐ヶ谷)
 主催:阿佐ヶ谷市民講座実行委員会

 

 

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  序 原子力マフィアと御用学者  
  1 帝国大学の設立と総力戦下の科学動員
    ― 海外進出と植民地科学
  2 戦時下の原爆製造計画から原子力の平和利用へ
    ― 湯川秀樹と武谷三男
  3 戦後の原水爆禁止運動と原子力の平和利用
    ― 中曽根康弘と正力松太郎
  4 原子力の平和利用を推進した戦後の科学運動
    ― 民主主義科学者協会と日本科学者会議
  5 そっくりさんの新左翼知識人と旧左翼前衛党
    ― 吉本隆明と日本共産党
  6 科学者の社会的責任
    ― 科学と倫理
  補足 御用科学者と市民科学者

 

 

序 原子力マフィアと御用学者

 

 3.11の福島第一原発事故で「原子力村」なるものが世間にクローズアップされ、いわゆる御用学者たちがゾロゾロ登場して、異口同音に「大丈夫です」「心配いりません」「健康に影響はありません」、と大事故の火消し役をつとめてきたことは皆様も周知の通りです。
 まず、「原子力村」ですが、わたしは最近の新著『原子力マフィア』で、その「原子力村」を「原子力マフィア」と再定義して、構造的な分析を加えました。「原子力マフィア」は、産・官・政・議・学・報・労 ― つまり、産業・官庁・政府・議会・大学・報道・労働組合、の7角形ないしは8角形の原発翼賛体制として形成されています
 その「原子力マフィア」の一角を占める大学から、大量の御用科学と御用学者が排出されているわけですが、これがさきの福島第一原発事故で一挙に表舞台に登場してきたことは周知の通りです。
 きょうのタイトルは「3・11と科学者の責任 ― 湯川秀樹から吉本隆明まで」となっていまして、明治以来の近代日本の御用科学の歴史的起源から説き起こし、3・11に至る日本の科学者の社会的責任を追及したいと思います。
 まず、湯川秀樹は戦時下に日本の原爆研究に携わり、戦後は「ラッセル・アインシュタイン宣言」の系譜に連なり、核兵器の廃絶を主張する運動に参加しますが、その半面で原子力の平和利用を容認し、初代の原子力委員長となった正力松太郎のもとで、原子力委員に就任して原発の着手の一翼を担いました。
 一方の吉本隆明は詩人・文芸評論家・思想家で、いまだに一部では「戦後最大の思想家」と持ち上げる支持者もいますが、東京工業大学の電気化学科を卒業し、インキ最大手の東洋インキ製造株式会社で技術者として勤めていますから、「科学者」とはいえないまでも「科学技術者」の1人と考えて差し支えないでしょう。
 かつて吉本隆明は「文学者の戦争責任」を追及しましたが、いまや吉本隆明を筆頭に「文学者の原発責任」が、「科学者の社会的責任」とともに問われなければなりません。

 

 


1 帝国大学の設立と総力戦下の科学動員
  ― 海外進出と植民地科学

 

 広重徹の科学史の研究などを参考に、近代日本における科学と科学者の歴史を政治とからめながら駆け足でたどり、いわゆる御用学者なるものが明治以来の富国強兵政策と帝国主義科学に起源を持ち、第二次大戦下の国家総動員体制の一産物としての科学動員を背景としているということを指摘したいと思います。
 東京大学が誕生したのは1877年(明治10)です。1894年(明治27)に日清戦争が起き、その日清戦争の講和条約による賠償金と戦後好況で1897年(明治30)に京都帝国大学が設立されます。
 そればかりでなく、1904年(明治37)に始まる日露戦争の戦後景気のなかで、東北帝大と九州帝大の設立の予算が計上され、1907年(明治40)の東北帝大と1911年(明治44)の九州帝大の設立に至るのです。
 日本が朝鮮を併合し大逆事件で社会主義者を弾圧したのは1910年(明治43)ですから、東北・九州の両帝大の設立は日本の帝国主義的な海外進出が開始された時期に当たります。
 つまり、明治の日本の資本主義的発展と帝国主義的進出に歩調を合わせて、東京・京都・東北・九州の各帝国大学が相次いで誕生しているわけです。ここには、今日の御用学者なかんずく原発御用学者の登場に先立って、そもそもの初めから帝国大学に端を発する国立大学が背負う、国家と戦争に組み込まれた原罪が象徴されています。
 東大開設の2年後の1879年(明治12)に設立された東京学士会院を帝国学士院に改組したのは1906年(明治39)のことですが、まず1910年(明治43)の皇室からの下賜による恩賜賞を誘い水に、1911年(明治44)には三井・三菱の両財閥から寄付が寄せられて、いわゆる学士院賞が制定されます。
 さらに、これに続いて、1912年(大正1)には住友・古河の両財閥も研究費の寄付を申し出て、学士院の研究費補助が始まります。このようにして、第一次大戦の前夜には学士院という国家機関を通して、日本における科学研究の体制化 ― 産・官・学の複合体が動き出したのです。
 こうした背景をもとに、日本帝国主義の中国進出や南方進出に歩調を合わせて、日本の科学は帝国主義科学ないしは植民地科学、つまり植民地経営のための科学研究、という性格を濃厚にしていきます。
 1936年(昭和13)の2・26事件を経て、1937年(昭和12)に日中戦争が勃発し、1938年(昭和13)に国家総動員法が公布されます。この総力戦下の科学動員の時代は、軍国主義と思想弾圧の時代でもありました。

 

2 戦時下の原爆製造計画から原子力の平和利用へ
  ― 湯川秀樹と武谷三男 ―

 

 原子爆弾は1938年のオットー・ハーンらによるウランの核分裂反応の発見を契機に、アメリカの科学者やマンパワーを総動員して1942年に始まったマンハッタン計画で製造に着手しました。
 ヒトラーのドイツも含めて欧米各国が原爆製造計画を進めるなかで、第二次世界大戦下の大日本帝国にも2つの原爆製造計画がありました。すなわち、「ニ号研究」と「F号研究」です。
 まず、「ニ号研究」は、理化学研究所の仁科芳雄博士の頭文字からカタカナのニを付けたもので、1941年に陸軍航空本部が理化学研究所の仁科研究室に委託して、1943年にゴーサインを出しています。
 「ニ号研究」には理化学研究所のほか、東京帝大、大阪帝大、東北帝大の研究者も参加しています。そのなかには、東京帝大の嵯峨根遼吉助教授、理研の仁科研究室の助手だった武谷三男もいました。
 つぎに、「F号研究」は、核分裂を意味するFISSION(フィッション)の頭文字から取ったもので、日本海軍が1943年に京都帝大の荒勝文策教授の研究室に原爆製造研究を委託しました。この「F号研究」には京都帝大の湯川秀樹教授も参加しています。
 戦後、仁科芳雄は「今日のような原子力の恐怖時代」に「科学者はその責の一半を免れることはできない」、反省の弁を述べています。
 日本の原爆製造研究に参画した湯川秀樹や武谷三男もまた、戦後になって核廃絶運動や原子力の平和利用を提唱する道を歩みます。
 湯川秀樹は広島と長崎の原爆投下のあと、とりわけ1954年3月のビキニ水爆実験を受けて、1955年7月の「ラッセル・アインシュタイン宣言」の共同署名者でもあります。この宣言の精神を受け継いで、1957年7月に始まる「パグウォッシュ会議」は、「科学者の社会的責任」をテーマの1つに取り上げています。
 湯川秀樹は戦後の「ラッセル・アインシュタイン宣言」や「パグウォッシュ会議」の流れのなかで、核兵器の脅威から「科学者の社会的責任」と「科学者のモラル」の問題を自覚するに至りました。
 この「科学者の社会的責任」や「科学者のモラル」は、いわゆる「原子力の平和利用」の原発にも適用されてしかるべきですが、湯川秀樹も当時としてはやむを得ない面もあったとはいえ、「原子力の平和利用」については最初から肯定的で期待値をもった見方でした。
 実際、1956年1月に正力松太郎が初代の原子力委員長に就任するや、しぶる湯川秀樹も正力に説き伏せられて、有沢広巳などとともに原子力委員になっています。

 湯川秀樹も武谷三男も自ら関与した原爆製造計画について、戦後ほとんど黙して語らずのようですが、「ニ号研究」に参加した物理学者にして反ファシズムの科学史家でもある武谷三男は、驚くなかれ広島と長崎への原爆投下を「反ファッショ」の「人道的行為」として評価しています。
 これは日本共産党が敗戦直後にアメリカの「占領軍」を「解放軍」として歓迎した立場に類似するものです。そればかりか、武谷三男の原爆肯定論や平和利用論は当時共産党の書記長だった徳田球一ら共産党の幹部に影響を与えます。武谷は戦後の日本でもっとも早く、「原子力の平和利用」を提唱した科学者だったのです。
 その後、共産党の分裂やソ連におけるスターリン批判などを経て、武谷三男は原水爆禁止運動や原発反対運動などにもかかわるようになり、「安全性」や「許容量」の考え方を打ち出して、一定の貢献をしたことは認めなければなりません。

 

3 戦後の原水爆禁止運動と原子力の平和利用
  ― 中曽根康弘と正力松太郎 ―

 

 日本における「原子力の平和利用」つまり原発開発は、1954年3月2日に改進党の代議士だった中曽根康弘が、2億3500万円の原子炉予算を突如国会に提出したのに始まります。奇しくも、3月2日は、アメリカがビキニ環礁で最初の水爆実験を行なった日 ― つまり、3月1日の翌日に当たります。
 この〝寝耳に水〟の原子炉予算の提出に驚いて、議員会館にかけつけた日本学術会議の茅誠司らに、中曽根康弘が「学者がボヤボヤしているから札束で学者のほっぺたをひっぱたいて目を覚まさせるのだ」と言い返した、とのエピソードは有名です。
 ところで、中曽根康弘とほぼ同時期に戦後日本の政界で、「原子力の平和利用」つまり原発の導入により総理の座を狙った大物政治家が、読売新聞社主の正力松太郎でした。中曽根康弘が正力派の参謀格におさまるのは、正力が国務大臣に就任した1955年11月以降のことのですが、この2人の連絡役をつとめたのは中曽根の〝刎頚の友〟となった読売新聞のナベツネこと渡辺恒雄です。
 佐野眞一の正力松太郎伝にくわしく出てきますが、警察官僚だった正力は1917年(大正6)の早稲田騒動や1918年(大正7)の米騒動の水際だった鎮圧ぶりで、「警視庁に正力あり」との声価を高め、1923年(大正12)の関東大震災下の朝鮮人大虐殺・亀戸事件・大杉栄殺害の3大虐殺事件にも、特高の総元締めの警視庁ナンバー2の官房主事として関与しています。
 その正力も関東大震災の翌年1924年(大正13)の虎ノ門事件で、治安の責任を問われて懲戒免官となりましたが、その直後の昭和天皇の婚礼で恩赦に預かり、読売新聞の経営権を買収して社長に就任します。
 戦後の正力は読売グループのオーナーとして、〝プロ野球の父〟〝テレビの父〟〝原子力の父〟と呼ばれるようになります。しかし、その正力が原発の導入に乗り出した直接の動機は、アメリカの中央情報局CIAと頻繁かつ密接に連携しながら、それをバックに、原子力を道具にして総理の座を狙ったことにあったのです。
 1955年11月に鳩山一郎を総裁、岸信介を幹事長に保守大合同が成立するや、衆議院当選1年目の正力が国務大臣になり、1956年1月に初代の原子力委員長に就任します。
ここで、「原子力の平和利用」をめぐる正力松太郎とCIAの関係に触れなければなりません。折から米ソの冷戦を背景に、「反共プロパガンダ」のため「冷戦のテレビネットワーク」を構想していたアメリカ政府や情報機関も、かつて共産主義者や無政府主義者を取り締まった札付きの反共主義者の元警視庁幹部の正力松太郎に目をつけ、かれの所有するメディアを「対日心理戦」の「エース的存在」として利用すべく、CIAを介して虚々実々の接触が始まったのです。
 読売新聞は1954年1月1日から「ついに太陽をとらえた」という「原子力の平和利用」の大型連載を始めます。その2カ月後の年3月1日にはアメリカのビキニ水爆実験で「第五福竜丸」の被災事件が起き、東京都杉並区の主婦が始めた草の根の原水爆禁止の署名運動は、またたく間に全国に波及して署名数は3000万人に及びました。
 この原水爆禁止運動と反米運動の高まりをどう鎮めるかで、頭を悩ませていたアメリカ政府と情報機関にとって、CIAを介して秘密裏に接触していた正力松太郎のメデイアたる読売新聞と日本テレビは、まさしく〝渡りに舟〟として〝CIAの掌中〟にあったのです。有馬哲夫がCIA文書から明るみに出した事実によれば、正力は「CIAの資産」として「育てていくべきだ」、とCIA文書に出てきます。
 CIAと合衆国情報局の全面支援でアメリカ持ちの費用により、1955年11月から6週間にわたり日比谷公園で開かれた読売新聞主催の「原子力平和利用博覧会」には、36万人が集まったとされます。
 一方では、1955年8月に第1回原水爆禁止世界大会が開催され、原水爆禁止日本協議会(略称、原水協)が結成されて、いわゆる原水禁運動がスタートするのですが、ソ連の核実験への対応をめぐって原水協は分裂します。
 1961年9月にソ連が核実験を再開すると、ソ連政府にも抗議すべきだとする社会党・総評系と抗議に反対する日本共産党が対立しました。共産党は「ソ連のおこなう核実験」は「侵略的な帝国主義者のおこなう核実験」とは違うとして、アカハタでソ連核実験支持の号外まで出して支持キャンペーンを行ないました。
 当時の共産党議長だった野坂参三は、「小の虫を殺して大の虫を生かす」とソ連の核実験を支持しています。共産党の関係者や共産党系の労働団体の機関誌には、「ソ連の核なら喜んでその死の灰を浴びたい」という話が出てきます。
 ソ連の核実験再開を機に、「いかなる国の核実験にも反対」をスローガンとする社会党・総評系のグループが、ソ連の核実験支持の共産党系が主流派をにぎる原水協から脱退し、1965年に原水爆禁止日本国民会議(略称、原水禁)を結成します。こうして、原水爆禁止世界大会は分裂集会を余儀なくされます。
 ところで、ビキニの水爆実験で被災した遠洋漁船は「第5福竜丸」だけでなく、当時の政府資料から全国の1000隻近くにのぼっていることが分かりますが、日本の反原発運動はむろん広島・長崎・ビキニの国民的な原体験を背景にしているとはいえ、原水禁運動の流れとは別の系譜で各地の地域住民運動として展開されます。
 日本の反原発運動の発端をなすのは、日本初の商業用原発である東海発電所の運転開始直後の1966年9月19日、芦浜原発計画の予定地視察にきた中曽根康弘ら衆議院特別委員会の一行の巡視船を350隻の漁船で取り囲み、上陸を阻止した長島事件です。この長島事件では30人の逮捕者が出ましたが、日本の反原発運動は熊野灘漁民の体を張った〝海戦〟で始まったのです。

 

4 原子力の平和利用を推進した戦後の科学運動
  ― 民主主義科学者協会と日本科学者会議 ―

 

 戦後の日本で禁止されていた原子力研究の再開を目指したのは、日本学術会議の茅誠司と伏見康司らでした。1949年に発足した日本学術会議は、戦前の帝国学士院や日本学術振興会の改革の産物として生まれたものですが、戦争中の科学動員の嫡出子という性格を拭えませんでした。というのも、日本学術会議は内閣総理大臣の管轄下にある、国費によって運営される内閣府の特別な機関だからです。
 一方、民間では民主主義科学者協会(略称、民科)が1946年に結成され、1950年前後の最盛期には地方支部114、専門委員1772人、普通会員8243人を擁し、戦後の占領期に影響力をもった最大の科学運動でした。
 マルクス主義者を中心とした民科の指導部は共産党の影響下にありましたが、いわゆる六全協やスターリン批判などで求心力を失い、1957年に本部を閉鎖し事務局を解散します。
 日本共産党と民科の「原子力の平和利用」の路線を敷くとともに、学術会議の「民主・自主・公開」の「3原則」を準備したのは、武谷三男でした。武谷は民科のもっとも有力な会員だったのです。
 共産党の影響下にあった民主主義科学者協会の限界については、政治学者の藤田省三が「マルクス主義の思想としての堕落の歴史」として批判的な分析を加えています。
 「思想としての堕落」とは、「絶えず自分の考えを自分で破壊しては再形成する過程の重要さを忘れて、自己の立場を実体化すること」を指しますが、それはあとで取り上げる科学の方法とも密接に関連することです。藤田のいうように、「民主主義科学」という言葉それ自体が、科学の普遍性からすれば「矛盾形容」です。結局、「民科は科学者の団体」であることをやめて、もっぱら「政治運動の団体」になってしまったのです。
 民主主義科学者協会のあとを受けて、科学者の全国組織として日本科学者会議(略称、日科)が1965年に創立されましたが、日本科学者会議もまた指導部は日本共産党の影響下にありました。
 その日本科学者会議編『原子力発電』を読むと、「日本科学者会議は原子力利用の可能性を頭ごなしに否定する立場に立つものではない」と認めています。
 事実、この日本科学者会議編『原子力発電』の執筆者一覧には、安齋育郎(東京大学医学部・放射線防護学)や中島篤之助(中央大学商学部・化学)や野口邦和(日本大学歯学部・放射化学)など大学の学者に加えて、日本原子力研究所の市川冨士夫(放射化学)、舘野淳(材料化学)など原子力専門家が9人も名前を連ねています。
 東大工学部原子力工学科出身の安齋育郎は、東大医学部から立命館大学の教授に転身し、3・11以後はいわゆる「原子力村」からはずされた人間として週刊誌などに登場しましたが、小出裕章のような明快で徹底した原発の反対派と違って、わたしは原発の条件付き推進派と見ていました。
といいますのは、チェルノブイリ原発事故のあと、わたしの地元の鳥取県生協が主催した講演会で、直接耳にしたので記憶にあります。安齋育郎は『原発 そこが知りたい』でも書いているように、「火力発電の稼働率上昇に伴う環境問題、六万人をこえる原発労働者の生活保障、原子力産業の全面停止に伴う国民経済への影響」などを挙げ、脱原発に〝二の足〟を踏んでいたからです。
 安齋育郎は「将来の核エネルギー利用の可能性は残しつつ」とも書いていますが、これが日本科学者会議の原発へのスタンスだったことも、否定できません。
 日本大学の野口邦和に至っては、チェルノブイリのあと広瀬隆の本が売れて、いわゆるヒロセタカシブームが起きたとき、共産党の『文化評論』)や『文藝春秋』で、その火消し役をつとめた日本科学者会議の科学者です。
 ここで、加藤哲郎のウェブ版の研究報告を参考にしながら、かくも大きな影響力をもった日本共産党の原発政策を歴史的に検証しておきたいと思います。
 日本共産党の「原子力の平和利用」論は、武谷三男の影響による徳球こと徳田球一の「原爆の平和利用」論に原型がありました。1953年12月のアイゼンハワー米大統領の「アトムズ・フォア・ピース(平和のための原子力)」に先立ち、日本では武谷三男や徳田球一の「原爆の平和利用」の提唱があったのです。
 笑うに笑えないのは、加藤哲郎のウェブ版の論文が掘り起こしている、滋養強壮剤『ピカドン』と『かぜにピカトン』です。滋養強壮剤『ピカドン』は、1948年に広島の「あとむ製薬」から売り出されていたものですが、今日のバイアグラも顔負けのものすごい強壮剤のような印象を与えます。「かぜにピカトン」は富山のクスリ売りの置き薬にあったそうです。
 ソ連の核実験再開以後、「核と人類は共存できない」を掲げた社会党系の原水禁(原水爆禁止日本国民会議)は、1971年いらい社会党や総評とともに反原発の住民運動や市民運動に合流して行く道を歩みます。
 一方、共産党は原水禁の「核と人類は共存できない」に反対し、1970年代以降も原発推進の政策を掲げ、反原発の住民運動や市民運動に立ち塞がる勢力となっていきます。
 少なくとも、日本共産党中央の原発推進政策は1980年代を通して変わらぬどころか、さきに日本科学者会議の野口邦和の広瀬隆批判にこと寄せて触れたように、1986年のチェルノブイリ原発事故後の日本の反原発運動の高まりに〝冷や水〟をかけるものでした。
 その共産党が「原発の新増設は行なわない」と言い出したのは1990年代半ば、さらに、「原発からの段階的撤退をめざす」と表明したのは2000年6月の第22回党大会からです。そして、共産党が脱原発への舵を切ったのは、3・11の福島第一原発事故以後でしょう。
 しかし、日本共産党の志位和夫委員長は、その福島第一原発事故後の昨年8月25日の『毎日新聞』で、「私たちは核エネルギーの平和利用の将来にわたる可能性」までは否定しないと発言していますので、未練がましいというべきか、原子力の平和利用の幻想を捨て切れていません。
 あとで申しますように、人間は誰しも誤るものだし、また誤りから学ぶものですから、武谷三男がスターリン批判や六全協を経て、公害反対運動や原発反対運動にかかわるようになったのは、大いに評価すべきことです。日本共産党が遅きに失するとはいえ、3・11以後ようやく脱原発に舵を切ったのも、それとして認めなければならないでしよう。

 

5 そっくりさんの新左翼知識人と旧左翼前衛党
  ―吉本隆明と日本共産党―

 

 吉本隆明の『「反核」異論』はこう述べています。「自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。また物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味する」と。
 そもそも、吉本隆明は、科学と科学の応用の産物である科学技術を混同しています。「物質の起源」や「宇宙の構造」の解明は科学の仕事であり、それを応用した「原爆」や「原発」がそれらの解明してくれるわけではありません。
 つぎに、「核」エネルギイの解放・イコール・「核」エネルギイの統御の獲得、という図式が成り立ちません。第1にチェルノブイリやフクシマのような大事故、第2に放射性廃棄物の処理という難問 (アポリア)― この原発の〝2大泣き所〟が〝論より証拠〟です。
 わたしが『反核・反原発・エコロジー』で、「反原発」=「反科学」を主張する吉本隆明と日本共産党を、「宮本顕治と吉本隆明は一字違いで瓜二つ」とおちょくったところ、案の定、まるで2人3客を組むかのように、吉本隆明と日本共産党がわたしに噛みついてきました。
 周知のように、吉本隆明は1960年安保闘争で反日共系全学連を支持して、新左翼の知識人として一躍脚光を浴びるに至った人です。その反日共系の旗手が日本共産党と呉越同舟で、つまりは、〝日本共産党そっくりさん〟だったという事実ほど、笑うに笑えない喜劇はないではありませんか。これは吉本隆明を「反日共系の教祖」とあおいできた「吉本真理教の信者」たちにとって受け入れ難いもののはずです。
 まず、吉本隆明の弁。「エコロティズムとテロリズムは、現在の左翼的な退廃のふたつの形態だよ。土井某と松下某がお手々をつないでしまうのは、いわば必然なんだよ。… 土井某のような、科学を否定するわけではない。科学主義を拒否するのだとなどといっている不徹底な日本のエコロジストがイリイチを持ちあげるのは、阿呆としかおもえない」。
 ついで、日本共産党の弁。「また同氏(松下竜一)が推薦する『反核・反原発・エコロジー』(土井淑平著)は、科学技術の進歩そのものを敵視する反科学主義の立場に立って「核兵器と原発は一卵性双生児であって … 『反核』は同時に『反原発』でもなければならない」と特異な理論を主張」。
 吉本隆明と日本共産党は、1986年にチェルノブイリ事故が起き、全国各地で反原発運動が高まるや、この事故の影響と運動の高まりに水をかけ、見苦しいもみ消しを図りました。
 まず、吉本隆明からいきますと、「あんな規模の大きい事故は、一世紀に二、三回起こるかどうかというほどのもの」「どんな装置だってこわれるんだよ。飛行機だって落ちて、一回で五〇〇人も死んだりする」「チェルノブイリ級の事故は、確率論的にもうあと半世紀はあり得ない」。
 チェルノブイリ級の事故が「あと半世紀はあり得ない」は、フクシマの事故で完全に否定されました。それどころか、1979年のスリーマイル事故、1986年のチェルノブイリ事故、2011年の福島第一原発事故、と数え上げてみると、30年間に3回の大事故が起きていることが分かります。つまり、10年に1回の割合の確率です。
 つぎに、日本共産党がわたしに浴びせた非難の一部を挙げておきますと、「(松下竜一や土井淑平は伊方原発の出力調整実験反対の行動で)素顔を隠して住民に近づいていますが、実態は住民の願いとは無縁な、核兵器廃絶の全人類的運動に「反原発」をもちこんで分裂策動をすすめる一方、原発反対運動にも分裂と混乱を持ち込む勢力です」。
 「(東京の原発止めよう!1万人行動の呼びかけの中心的役割りを果たした高木仁三郎や槌田敦、室田武といった反原発の学者は)反科学主義、科学技術悪論の立場に立って、原子力の平和利用の可能性まで否定する」。
 しかしながら、何と言っても、吉本隆明と日本共産党の二人三脚の原発弁護論の極めつけは、ロケットによる核廃棄物の宇宙への打ち上げ説です。まず、吉本の珍説からいきますと、「半衰期がどんなに長かろうと短かろうと、放射性物質の宇宙廃棄(還元)は原理的にはまったく自在なのだ」「核廃棄物を打ち上げて宇宙代謝する。宇宙空間で処理できない物質代謝はないんです」。
 「核廃棄物はロケットで宇宙に打ち上げろ」という吉本隆明の珍説には、「核廃棄物はロケットで太陽にぶち込め」という日本共産党の出版物の奇論が対応しています。すなわち、「私は放射性廃棄物をロケットに積んで太陽にぶちこむ方法もあると思います。太陽の引力圏に送りこんでやれば、後は太陽が吸い込んでくれるでしょう。太陽はものすごく大きいものですから、世界中の放射性廃棄物を全部送り込んでも『チュン』というくらいのものです」。
 いずれもアッと驚く珍説奇論ですが、アメリカの「スペースシャトル・チャレンジャー」が、チェルノブイリ事故の少し前の1986年1月、打ち上げに失敗して爆発事故で炎上したことを、吉本隆明も日本共産党も知らないのでしょうか。
 たとえば、高レベル廃棄物は子どもの背丈くらいの容器1個に、広島原爆30発分の放射能を含んでいますが、もしこれをたくさん詰め込んでロケットとともに爆発・炎上したら、すさまじい地球汚染でおそらく人間の生存は不可能となるでしょう。
 それ以前に、核廃棄物の処分のためロケットを製造し打ち上げるとなると、それこそ膨大なエネルギーと経費が必要なので、原発が生み出す電気のコストよりも高いコストがかかるに違いありません。そうなると、収支が合わず、いったい、何やってるんだ、ということになるはずです。
 吉本隆明の恥の上塗りの行き着いた先が、3・11以後の『毎日新聞』『日本経済新聞』『撃論』『週刊新潮』に登場した見苦しい原発弁護論でした。わたしは『週刊新潮』で「「反原発」で猿になる!」と遠吠えしている吉本隆明を、それに同調して吠え合っている石原慎太郎ともども、あんたたちこそ「猿族の仲間」だと批判しておきました。

 

6 科学者の社会的責任
  ― 科学と倫理

 

 科学と技術ないしは科学技術は、明確に区別されるべきもので、両者は混同されてはなりません。そのうえで、科学が世界観や党派性によって左右されるべきものでないことも、強調しておく必要があります。
 まず、科学について申しますと、自然科学であれ社会科学であれ、つまり自然や社会や歴史の認識は仮説を立て、実験や観察のふるいにかけ、その仮説の絶えざる修正や更新によって深められていきます。それゆえ、科学の方法はどこまでも、カール・ポパーのいう「推測と反駁」の方法です。
 ポパーは言います。「われわれは自己の錯誤から学びうる」「一つの理論 ― すなわち、われわれの問題に対するまじまな暫定的解決策 ― の反証そのものが、常にわれわれを真理へ一歩近づけることになる。そして、このことが、われわれは自己の錯誤から学びうるということの意味なのである」と。
 この言葉をそっくり吉本隆明とその信者たちに捧げたい。なぜなら、吉本の信者たちは中沢新一のような才能ある文化人類学者も含めて、吉本さんが一貫して自らの考えを変えないのは立派だとホメ上げているからです。これは吉本が思想的に死んでいて、いわば仮死状態にあることを意味します。つまり、かれの思想は反証も批判も受け付けず、それゆえ更新も進化もなく、停滞というより石化したまま、自らのコピーを膨らませて出がらしになるまで自己増殖しているにすぎない、ということです。
 わたしが「オウム真理教」をもじって「吉本真理教」と名付けるゆえんです。吉本は浅原彰晃を「世界有数の思想家」「世界有数の宗教家」と呼び、この言葉を一度も訂正していませんが、真理教の教祖が自分の考えをくるくる変えていたら持ちません。教祖たるもの、絶対に錯誤を犯さず、つねに永遠に正しく、なければならないからです。こうして、永遠なる「吉本真理教」の「神話」の虚構が維持されるわけです。
 つぎに、科学と弁証法の関係ですが、自然や社会がマルクス主義者のいわゆる弁証法によって動いているわけではありません。かりに弁証法的に動いているかのように見えることがあっても、弁証法なる事実や観念ないしは言葉や比喩が、自然や社会や歴史を動かしているわけではありません。
 たとえば、武谷三男は「自然はそれ自身弁証法なのである」「自然弁証法は自然自体の弁証法であります」「自然弁証法は自然科学の方法論であるのみでなく、個別科学そのものの骨組をあらわす」と書いていますが、これは完全な間違いです。「自然」は「弁証法」ではないし、「自然科学の方法論」は「自然弁証法」ではなく、あくまでもポパーのいう「推測と反駁」という「科学の方法」にあるのです。
 吉本隆明は「自然弁証法」や「弁証法的唯物論」の概念は使いませんが、「自然史的過程」とか「自然史的必然性」といった文脈で科学や科学技術の発達を理解し、その延長線上で「いったん獲得された技術」だから「原発はとめられない」、とつぎのように主張しています。「つまり科学技術の発達は制度の問題というより自然本質の問題ですから、いったん獲得された技術はとめられないでしょう」「科学技術は、それが危険であろうとなかろうと、中立であり、そこには政治性は入る余地はない」と。
 まさしく〝井の中の蛙〟というべきか、「吉本真理教の信者」のいわゆる「戦後最大の思想家」とやらが、古代ギリシア以来の「ピュシス」と「ノモス」(自然と法)、ないしは、「ピュシス」と「テクネ」(自然よ技術)の区別すら弁えていないことに驚きますが、吉本隆明の見解はまったく逆立ちしています。
 わたしは吉本の言説を指して、「バベルの塔のごとく無限に発達する科学技術の神話」と批判しましたが、科学技術は吉本のいわゆる「自然本質の問題」や「自然史的過程」に属するのではなくして、まさしく「制度の問題」にかかわる「歴史的行為」なのです。
 近代日本の科学の歴史を見てきたように、科学ですら政治的枠組ないしは政治経済的枠組によって選択や方向づけがなされ、その結果として広重徹のいう「科学の制度化」ないしは「科学の体制化」と呼ぶべき事象が生じていることは疑えません。それが技術ないしは科学技術となると、歴史の動向によってもっと直接的かつ全面的に、政治的枠組ないしは政治経済的枠組によって左右され規定されることになります。
 それゆえ、テクノロジーは中立なのものだ、とする中立説は完全に間違っています。これについては、イギリスのオールタナティブ・テクノロジーの理論家デイビッド・ディクソンの、つぎの見解が正しいと考えます。
 「テクノロジーは、社会がその権力構造を支持強化するための物質的手段を、個々の機械という形で提供するだけではない。それは、同時に、一つの社会制度として、この社会構造を、その設計のうちに反映する。ある社会のテクノロジーは、決して、その社会の権力構造と切り離すことはできず、したがって、テクノロジーは決して政治的に中立なものとみなすことはできないのである」。
 「ラッセル・アインシュタイン宣言」の精神を引き継いだパグウォッシュ会議は、「科学者の社会的責任」というテーマも扱い、一方に科学的真理追究の自由を置き、他方にそれが生み出した核エネルギーの平和的利用は推進するが、兵器としての使用は禁止するという二元的なスタンスでしたが、これにいち早く異を唱えたのは文学者の唐木順三でした。
 そのなかで、唐木は「科学と技術の進歩の非可逆性ははたして文明の非可逆性に通じるであらうか。科学技術の非可逆的な進歩が、文明、したがつてまた人間を逆行させ、或ひは喪失させるといふことは、夢でも幻でもないではないか」と書いていますが、これは正しい意見だと思います。吉本隆明に煎じて飲ませたいくらいです。
 ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一郎も、パグウォッシュ会議の流れを汲み、「科学者の社会的責任」を自覚している科学者で、ノーテンキな文芸批評家の吉本隆明などとは比べものにならないくらい、厳しい倫理を持っていました。
 湯川は「原子の研究が進み、原子力を利用する見込みが出来て来た瞬間から、研究者としての生き方、考え方と、それ以外の面における生き方、考え方を、切りはなすことが出来なくなった。原子力はどのような目的に使われようとも、研究者自身にかかわりのないこととは、どうしてもいえなくなって来たのである。原子物理学者の場合は、もっともいちじるしい例であるが、他の非常に多くの場合において、科学の成果が実用性をもちはじめると同時に、程度の違いはあっても、そこに、倫理、モラルの問題が入ってくるのをまぬかれないのである」と書いています。
 朝永も「かつては科学者は自分の専門の研究だけをしていればよかったが、今では、その研究の成果が人類に何をもたらすかをよく見定め、善についても悪についても、世の人びとにそれを周知させ、警告する仕事を引き受けねばならない。科学者がこれを引き受けねばならない理由は、科学者はその発見のもたらすものを普通の人びとより、より早く、より深く知っているからである」と書いています。
 湯川秀樹も朝永振一郎も、科学の成果が人間の社会に利用されたり悪用されたりするので、科学者はモラルないしは倫理の問題に向きあわなければならない、といみじくも言っています。この点、吉本隆明はア・モラル、つまり、科学は倫理と無関係で中立的なものだ、と逃げています。
 吉本の錯誤を象徴するのが、「科学」を「人間の倫理的・政治的課題」の審判者とする見解ですが、これまた完全に逆立ちしていて、実はまったく逆の意味で、「人間の倫理的・政治的判断」こそが「科学」を審判する上級法廷なのです。
 「科学」は生活し行動する人間に「物事の善悪」を教えるものではなく、「物事の善悪」の判断は選択し行動する人間の「歴史的決断」にゆだねられているのです。このように、吉本は「科学」と「科学技術」の混同に加えて、「科学」と「倫理」の関係をも逆立ちさせています。

 

補足 御用学者と市民科学者


 3.11のフクシマの事故では「科学者の社会的責任」が問われなければなりません。湯川秀樹や朝永振一郎の言葉は、吉本隆明というよりは今日の科学者たち、なかんずく、3・11のフクシマに責任を負う「御用学者」の煎じ薬にして飲ませたい発言です。むろん、電力会社や政府のカネや地位に目のくらんだ程度の低い御用学者を、ノ―ベル賞級の学者と比較するのは酷かも知れないとはいえ。
 フクシマでクローズアップされた日本の「御用学者」の歴史的ルーツは、明治以後の近代日本の資本主義的発展と帝国主義的進出にあります。早い話、わたしのいわゆる原子力マフィアの「御用学者」の供給源は、旧帝大と東工大の8大学が主力です。これら旧帝大が日清・日露戦争以来、戦争とともに誕生し成長してきたことは、見て来た通りです。
 3.11で明るみに出た「御用学者」たちは、いうなれば「科学の売春婦」のようなものです。すまわち、科学を曲げて打って、市民たちを惑わし、企業や国家からカネと地位を得ています。かれらは3・11のフクシマだけでなく全国の原発に大きな責任を持っています。
 こうした「御用学者」たちの流れに逆らって、言葉の真の意味での科学者としての仕事と活動に打ち込んできたのが、日本の数少ない「市民科学者」たちす。「市民科学者」という言葉は、高木仁三郎の『市民科学者として生きる』から取ったものです。
 それは素人の日曜大工のたぐいの日曜科学者といった意味合いではなく、市民の立場から専門的な研究と研鑽を批判的に生かす、オルターナティブな科学者を指します。科学の方法たる「推測と反駁」のところでも強調しましたが、「推測」とともに「反駁」つまり「批判」は「科学の品質証明」のようなものです。
 高木仁三郎や小出裕章がなぜ「反原発」になったのかとの質問も出ましたが、それはイエスマンの圧倒的な「御用学者」たちに取り囲まれながら、かれらが本物の批判的な「科学者」だったからです。原子力マフィアに取り囲まれた「御用学者」の大群に抗して、こうした本当の意味での「科学者」たる「市民科学者」が活動していることを、せめてもの慰めにしたいと思います。
 3.11以後のフクシマをめぐって、小出裕章の本が飛ぶように売れてベストセラーになっているのも、市民たちがゴマンといるイカガワシイ「御用学者」たちの洪水のような「ニセ情報」に飽き飽きし、フクシマについての「本当の情報」ないしは「本当の科学的判断」を求めていることを、問わず語りに明らかにしています。