ふるさとの環境運動

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ふるさとの環境運動

  ― 四日市から山陰と人形峠のふるさとの山河まで ―

 

日時: 2013年3月22日

場所: 鳥取ガスショールーム サルーテ

主催: 鳥取ガスグループ サルーテ文化講座

 

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                    目次

 

   序   四日市~鹿児島~とっとり

        ― わたしの環境運動の出発点と通過点

   1   青谷原発阻止運動

   2   ウラン残土撤去運動

   3   松枯れ農薬散布反対運動

   結び 山河守りてふるさとあり

        ― 原発再稼働前提の原子力災害対策への根本的批判

 

 

 

序 四日市~鹿児島~とっとり

  ― わたしの環境運動の出発点と通過点

 

 きょうはわたしの講座のために沢山お集まり下さいまして、有難うございます。大変立派な資料を作成していただきまして、こんな素晴らしいデザインの資料を講演や講座で使うのは初めてです。これを使いながら1時間ほどお話させていただきます。
 わたしの環境運動とのかかわりのきっかけは、1960年代後半の四日市公害です。四日市は白い砂浜と青い松のいわゆる〝白砂青松〟の美しい海岸で知られていました。そこに戦後の石炭から石油へのエネルギー転換に伴って、石油化学コンビナートの企業群が進出して、日本の〝四大公害裁判〟へと至る〝公害のるつぼ〟に変貌しました。
 つまり、当時の四日市では、〝四日市ゼンソク〟に象徴される大気汚染、〝伊勢湾の臭い魚〟の原因となった工場排水による水質汚濁、ちょっと町に近づいただけで鼻をつく異様な悪臭、騒音、震動、地盤沈下 … とあらゆる種類の公害が一斉に噴き出していたのです。
 そのころ、わたしは共同通信の記者として、延べ30回の連載ルポを書くと同時に、四日市の反公害運動の担い手だった地区労書記の澤井余四郎さんのお供をして、テープレコーダーを肩に公害患者や地元漁民の聞き取り書きを手伝いました。それは記者という〝職業人の仕事〟としてではなく、勤務外の〝一市民の活動〟としてやったことです。
 これがわたしの環境運動へのかかわりの始まりであり、それ以来わたしは、記者にして市民、職業人にして活動者、というスタンスを取り、いわば〝2足のわらじ〟をはくことになりました。〝2足のわらじ〟をはくということは、〝2重人間〟の自覚を持つことでもあります。
 生きるためには何らかの職業について働かないと食っていけない。しかし、本来、誰しも何らかの〝職業人〟にして〝市民〟でもあるわけで、〝市民としての権利〟は〝憲法〟でも保証されています。そういう意味では、誰しも〝職業〟を持ちながら、同時に〝市民〟でもあるという、〝2足のわらじ〟をはいた〝2重人間〟なのです。それを意識ないしは自覚するかどうかで、わたしたちの生き方は別れるわけです。
 とりわけ、日本の社会は、オランダのジャーナリストのウォルフレンが日本人は「会社と結婚」して「虚勢」されていると喝破したように、カイシャの縛りと帰依の自己規制が強く、サラリーマンをはじめ〝職業人〟の多くは勤務を離れても、なおカイシャに縛られていると感じ、〝市民〟としての自由な発言や行動を控えがちです。
 わたしは四日市のあと、いったん東京の本社に戻り、自ら考えるところがあって、希望して地方に出ました。いわゆる飛ばされたのではなく、自ら飛んで出たのです。1970年代初頭のことで、自分の職場では〝東京脱出〟の〝第一号〟です。みんな中央志向で東京本社を希望するなかで、逆向きの東京脱出の地方希望ですから、オタマジャクシのアタマがさかしまの変な方向に向いていますよね。
 当時の日本は田中角栄のいわゆる〝列島改造〟に見舞われ、あちこちで開発問題や公害問題が噴き出し、とっとりの地方生まれのわたしには、〝地方危うし〟の危機感がありました。そして、わたしの脱出先の任地は、たまたま鹿児島の共同通信支局でした。
 そのころ、鹿児島は〝北のむつ小川原、南の志布志〟と呼ばれたように、志布志湾の巨大石油開発を抱えると同時に、川内原発建設計画でも揺れていました。そればかりでなく、奄美大島の枝手久島も石油基地計画に狙われ、要するに、鹿児島は開発と公害、したがってまた、反開発・反公害運動の〝るつぼ〟でもありました。
 ここで、わたしは鹿児島大学の助手だった橋爪健郎さんと出会い、かれが主宰していた公害問題研究会に参加し、その1人として1970年代半ばの川内原発建設反対や鹿児島の離島の甑島へのむつ母港化反対、などの運動のごく一端を担いました。これがわたしの反原発運動へのかかわりの最初でして、わたしの反原発運動は好物の焼酎とともに薩摩仕込み鹿児島産です。
 その後、福岡を経由して、1980年秋に郷里の鳥取の共同通信支局に空きが出て、首尾よくUターンと相成りました。むろん、そのときは、青谷原発計画や人形峠ウラン残土に遭遇するとは思ってもみませんでした。

 

1 青谷原発阻止運動

 

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 わたしが中国電力の少数派労働組合だった電産中国のルートで、青谷原発計画の青写真をキャッチしたのは、郷里の鳥取にUターンしたばかりの1980年末でした。いまから33年前のことです。
 年寄りは最近のことはよく忘れるが、遠い昔のことはよく覚えていると言われます。わたしもいつも寝る前に見るサスペンスの内容はすぐ忘れますが、遠い昔とりわけ青谷原発計画のことは鮮明に記憶しています。わたしは当時、正月のおとそ気分も吹き飛んで、何とも言い難い重く暗い気持ちになりました。
 「大変なものがとっとりに来る」という思いで、わたしは青谷原発計画をまるで隕石の落下のように受けとめました。最近、ロシアのチェリャビンスクに隕石が落下するという大きな事件が起きましたが、このチェリャビンスクは「ウラルの核惨事」と呼ばれる高レベル核廃棄物の大爆発が起きたところです。
 青谷原発はお手元の資料2ページの左下の写真にある風光明媚な長尾鼻が候補地で、(年表1)「青谷原発阻止運動」に経過を掲げていますが、これをいちいちたどっていたら時間がなくなりますので、ポイントだけお話します。
 青谷原発計画が公けになったのは、1981年3月7日の日本海新聞の記事「青谷町も有力候補地」、並びに、中国新聞の記事「候補地に長尾鼻(鳥取)も浮上」ですが、中国新聞の記事はわたしが日本海新聞の記者としめし合わせて、共同通信から同時に全国に配信したものです。
 しかし、この記事を発表するまでに、わたしは気高郡連合婦人会や鳥取県総評の幹部の人たち、さらにまた、市民グループの中心になる少なからぬ人たちに情報を伝達していき、阻止運動の下地づくりを進めました。とはいえ、わたしは高校卒業後、20年も鳥取を離れていたので浦島太郎みたいなもので、青谷原発計画の伝達も阻止運動づくりも、人探しと並行して進めねばなりませんでした。
 わたしの知見と判断では、原発はいったん計画を決定し発表したら、電力会社はスッポンのように食らいつき、死ぬまで放そうとしない。住民は何十年も振り回されて傷つきヘトヘトになる。だから、計画の正式決定と発表以前に、これを許さない予防闘争が、もっとも有効な決め手となる。
 これを教訓に、青谷原発阻止運動の特徴は、まさに水際で原発を阻止した先手必勝の闘いで、ほぼ1年にわたって地道な準備と活動を重ねたうえ、翌1982年に集中的な行動でほぼ食い止めました。
 すなわち、①青谷原発設置反対の会結成②青谷町議会の反対決議③気高郡連合婦人会の反対署名④県内各界代表の共同アピール⑤市民グループがネットワーク結成 ― の相次ぐ5つの行動です。
 いずれも重要な行動ですが、なかでも有権者の過半数を超える気高郡連合婦人会の9000余人の署名提出は、県内各界代表300余人の共同アピールの発表ともども、青谷原発計画の前に立ちはだかる大きな防波堤の意味を持ちました。共同アピールは県内の労働・農業・漁業・ 教育・文化など各界の第一線で活動している代表格の人たちの名前を連ねたものです。
 気高郡連合婦人会のリーダーは、それ以前から環境問題や食品問題に熱心に取り組んでいた村上小枝さんや小泉澄子さんで、わたしはオオカミ少年ならぬオオカミ中年じゃないけど、「青谷に原発がくる」と各方面に触れ歩く役割を果たしたので、村上さんから「土井さんは放射能が背広を着て歩いているようなもの」と皮肉られたものです。
その気高郡連合婦人会は真っ先に京大原子炉実験所の小出裕章さんを呼んで講演会を開き、火の玉となって草の根の運動にまい進しました。村上さんから署名運動のことを相談され、わたしは「やるなら今だ」と進言しました。
 気高郡連合婦人会は鳥取県連合婦人会の傘下の婦人会でしたが、この県連合婦人会にはやはり環境問題や平和問題に熱心な、近藤久子さんという教養のある聡明な大会長がいて、その機関紙『鳥取県婦人新聞』で青谷原発計画の情報や気高郡連合婦人会の活動を全県の婦人会員に伝達し広報していったことも大きかったと思います。
 それはともかく、いま挙げた5つの集中した行動によって、青谷原発計画は水際でほぼ阻止できたと思いますが、わたしたち市民グループは決して安心せず、青谷の民宿で家族出れ子供連れで毎年夏に泊まりがけの合宿を行い、警戒と交流と学習を続けました。資料2ページの右下の青谷の海岸で反原発風船上げを行なう市民グループの写真を見て下さい。
 しかし、それでも安心できないわたしは、原発を阻止した各地の事例を徹底的に研究し、「土地の研究」という小冊子をつくり、原発阻止の決め手として土地の購入と共有化を市民グループに提案しました。わたしがもっとも参考にしたのは、福島県の浪江・小高原発予定地や新潟県の巻原発予定地の土地共有化でした。
 それから、市民グループの仲間と気高の法務局に何度も足を運び、青谷の長尾鼻の零細で膨大な数の土地所有者を1筆1筆調べ上げました。土地の取得では大変苦労しましたが、原発の炉心部の7筆の土地を入手して約200人に分筆し、1989年初めに土地共有化を記者発表して、青谷原発計画の〝息の根〟を止めました。
 わたしは1980年代の青谷原発阻止運動の黒衣役を演じましたが、長尾鼻の土地共有化を実現したのは、実に多くの人たちの血と汗の結晶の賜物です。その具体的な経過は、きょうの会場に置いています2冊の本にくわしく書いていますので、興味のある方は手に取って見て下さい。
 2冊の本というのは、わたしと小出裕章さんの共著『原発のないふるさとを』(批評社、2012年)、および、中嶌哲演さんとの共編『大飯原発再稼働と脱原発列島』(批評社、2013年)です。
 『大飯原発再稼働と脱原発列島』はこの3月10日発売の、いわば出来立てホヤホヤですが、青谷の横山光さんと共同執筆した第六章「原発を水際で阻止した先手必勝の闘い」で、当時の裏話も含めてこまかく報告しています。
 2011年の3・11フクシマ大惨事以後、高教組と県教組の東部支部青年部の若い人たちが、わたしを招いて「原発のないふるさとを」という講演会を主催し、これをきっかけにして、さまざまな市民グループや労働組合の若い人たちが長尾鼻の共有地で、サツマイモ栽培と植樹活動を始めました。
 ですから、青谷原発阻止運動の遺産としての長尾鼻の共有地は、決して過去の出来事ではなく、新旧世代合流の〝脱原発の拠り所〟として、未来に向かって新たな歩みを始めているわけです。

 

2 ウラン残土撤去運動

 

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 青谷原発予定地の土地の共有化を進めていた最中の1988年8月、人形峠でウラン残土の放置が発覚しました。これ以後、わたしはウラン残土問題に全力を投入していくことになります。
 実のところ、わたしはそれ以前から人形峠のウラン鉱山のことを調べていて、とくに人形峠で働いたウラン鉱山労働者を探していました。当時、社会党の県会議員(のちに参議院議員、岩美町長)だった吉田達男さんのルートで、人形峠で働いていたという人を紹介され、その人から当時の話を聞いたり、後遺症はないか、日赤の内科医だった徳永進さんに診察してもらったりしました。
 しかし、はっきりしたことは分からず、人形峠のことを探りあぐねていた矢先、ウラン残土の放置発覚というかたちで、ウラン鉱山の問題が突如眼前に浮上してきたのです。とりわけ、東郷町(現在の湯梨浜町)方面(かたも)の榎本益美さんとの出会いは、わたし個人の人生にとって運命的な出来事だっただけでなく、人形峠のウラン残土問題にとっても決定的な出来事でした。
 人形峠のウラン残土の放置発覚は、1988年8月15日の山陽新聞の1面トップ「放射性物質含む土砂放置/民家近く20年間/放射線量 周辺の30倍」という特ダネ記事がきっかけでした。これでわたしの盆休みも完全に吹っ飛びました。
 その4日後の8月19日、人形峠をはさむ岡山県と鳥取県の社会党と県総評は合同調査団を組み、青谷原発阻止運動以来のわたしたち市民グループもそれに合流して参加しましたが、そのさい鳥取県の社会党と県総評の幹部から学者の紹介を頼まれ、わたしは大阪大学講師の久米三四郎さんに電話で連絡を取って同行してもらいました。
 この両県の合同調査団は人形峠鉱山跡地のウラン残土堆積場を視察し、事業所の幹部から説明を受けたあと、いくつかのグループに別れて人形峠周辺のウラン鉱山の地元を訪ねました。わたしは鳥取県東郷町の方面地区のグループに加わりましたが、ここでウラン採掘労働者だった榎本益美さんと出会ったのです。資料3ページの左下の写真は坑口ムキ出しの方面鉱山跡地です。
 それ以来、わたしは榎本さん宅に何度も何度も足を運び、1950年代末の方面鉱山におけるウラン採掘の様子の聞き取りを進めるとともに、榎本さんの協力で方面堆積場周辺の土・水・稲などの試料を採取させてもらい、それを京大原子炉実験所の小出裕章さんに送って、その分析データを記者発表して順次公表しました。
 いまだから話せるウラ話ですが、わたしは共同通信の記者をやっていたので、記者発表の席では取材側です。しかし、すべての記者発表資料はわたしが作成し、市民グループの人たちに発表してもらいました。ですから、わたしは県政記者室で自分が作成した記者発表資料をもらい、その資料をもとに記事を書くという、こまわり君のような2重の役割を演じました。ウラン残土のニュースは各紙の鳥取版に載りましたが、全国に流したのは共同通信だけでした。
 こまわり君というのは、ひと昔前に山上たつひこが、たしか『少年チャンピオン』という漫画雑誌に連載していた爆笑コミック漫画『がきデカ』の主人公で、わたしはそれを愛読していまして、いまでも書斎の本箱に『がきデカ』シリーズが10数冊も積んであります。そのこまわり君は、子供のくせにドスケベエで、大きな警察官の帽子をかぶり、ふた言目には「死刑!」を連発しますが、人の目の前でクルクルあの役この役を演じてみせるのでこまわり君と呼ばれるわけです。
 ちょっと話が横道にそれたので元に戻りますが、人形峠をはさんで岡山・鳥取両県の12カ所に野ざらしで放置されていたウラン残土は、トータルで45万立方メートルに及び、200リットル入りドラム缶に換算して225万本分です。
 これは日本の原発と核施設から、これまでに出たすべての核廃棄物の累計の、なんと2.5倍に当たります。つまり、これだけ膨大な核廃棄物が、すでに人形峠で出ていたということです。
 ウラン238の放射能の半減期は地球の年齢に等しい45億年ですから、ウラン残土がある限り放射能は半永久的に出続けます。わたしが当時の原子燃料公社(動燃などを経て、現在の日本原子力研究開発機構)の年報のデータを国会図書館から入手し、小出裕章さんに分析してもらったところ、人形峠周辺の延べ1000人の採掘労働者のうち延べ70人の肺がん死が避けられないという推計値が得られました。
 しかし、人形峠周辺の12地区のウラン鉱山跡地ないしはウラン残土堆積場のなかで、ウラン残土の撤去を要求して立ち上がったのは、唯一、榎本益美さんの方面地区だけです。
 わたしたち市民グループと小出裕章さんの共同調査の結果の発表 ― つまり、方面地区のウラン残土堆積場周辺の汚染の事実の衝撃もありまして、方面自治会は1988年12月、「ウラン残土の全面撤去」の要求書を東郷町に提出しました。
 それ以来、方面地区のウラン残土撤去運動が、なんと18年間も続きます。この方面地区のウラン残土撤去運動の前に立ちはだかったのは、ウラン残土の発生者にして放置者たる国策の法人である動燃(現在の日本原子力研究開発機構)だけではありません。動燃・国・県・東郷町の2重3重4重の圧力で方面地区の住民運動を上から潰しにかかったのです。
 小さな田舎の村にとって、これはものすごい圧力です。普通だったら手安く潰されます。実際、方面地区はお上の何重もの圧力によって、何度も潰されかけました。しかし、方面地区は、鳥取弁で言うしんわりたんわり(粘り強く)持ちこたえ、地に倒れかかった柳がしなやかに元に戻るように、あるいはまた、不死鳥のフェニックスが危機からよみがえるように、たび重なるお上の圧力に屈しませんでした。
 その最大の理由は、榎本益美さんが最後の最後まで、抵抗の姿勢を貫いて屈しなかったからです。方面地区にも動燃派はいましたが、ウラン採掘当時、25世帯(現在は20世帯)からそれぞれ夫婦2人程度、ウラン採掘の補雑役作業に従事し、いわば体でウランの山を知っていたことも、榎本さんの抵抗を暗黙のうちに支持する気持ちが働いたと思われます。
 先々週の『週刊朝日』(2013年3月15日号)が「機密ファイルが暴く「原子力ムラ」の闇」第1弾「ウラン採掘「人形峠」で行なわれていた住民工作」というスクープを掲載しています。 動燃は方面地区の住民1人1人の身元調査をしていて、その詳細な一覧表のなかで、ウラン残土撤去運動の中心人物たる榎本益美さんを、「共同通信記者、市民グループ」から切り離し「孤立させる」ことが「効果的」と出てきます。
 さらにまた、方面地区のある有力者の項でも、「共同通信鳥取支局土井記者による農作物への影響を半ば信用させられている」として、「農協関係の幹部、果実連の花本会長(県議)、県農協中央会長等に依頼」することと、工作のルートと対象を特定しています。
 方面地区のウラン残土撤去運動の経過については、資料3ページに(年表2)「ウラン残土撤去運動」を掲げていますので、あとでこれを見ておいていただけたらと思います。また、運動の内容については、この会場に置いていますわたしと小出裕章さんの最近の共著『原発のないふるさとを』(批評社、2012年)、および、『放射性廃棄物のアポリア ― フクシマ・人形峠・チェルノブイリ』(批評社、2012年)に、それぞれくわしく報告していますので、ここでは省略します。
 その要点だけ圧縮して申しますと、方面地区のウラン残土撤去運動の決定的な転換点は、1999年12月の榎本益美さんとわたしたち支援者によるウラン残土撤去の実力行使でした。その決定的な瞬間が資料3ページの右下の写真で、これはチェーンブロックで掘り上げたウラン残土の1袋です。
 この実力行使はNHKや全国紙のニュースで大きく取り上げられ、各方面に衝撃を与え、ひいてはまた、鳥取県の片山善博知事を動かして方面自治会の支援に向かわせ、翌2000年11月の方面自治会のウラン残土撤去裁判の提訴、これに続く同年12月の榎本益美さんの提訴へと至りました。
 その結論は、紆余曲折を経たあげく、2006年11月、ついにウラン残土3000立方メートルの撤去を実現しました。方面地区のウラン残土はトータルで1万6000立方メートルありますが、そのうち放射能の高い3000立方メートルの撤去を動燃が約束し、それをめぐって裁判を起こしていたわけです。
 つまり、方面自治会は18年間もかけ、お上の2重3重4重の圧力に抗して、ウラン残土撤去の要求を貫徹したのですが、決して万々歳ではありません。というのも、方面地区から撤去された3000立法メートルは、人形峠周辺のウラン残土全体の45万立法メートルのごく一部にすぎず、根本的な解決には程遠いばかりではない。撤去されたウラン残土3000立法メートルのうち290立方メートルが、ウランの製錬をするという名目で、6億6000万円もの国民の税金を使って、アメリカの先住民の土地にある製錬所に〝鉱害輸出〟されたからです。
 とはいえ、曲がりなりにも、方面地区のウラン残土撤去の要求が実現したのは、榎本益美さんが頑張り抜いたことに加えて、お上たる国の下っぱ役人のような動燃べったりの西尾邑次知事に代わって、片山善博知事が登場して鳥取県のウラン残土行政を180度転換し、方面自治会のウラン残土撤去訴訟を物心両面から支援したことが決定打となりました。地方の首長たる県知事が住民の訴訟を支えたのは、日本の歴史上にも異例の画期的なことだったとわたしは思います。
 それにしても、ウラン残土の発覚から18年間もかけて撤去の要求を貫いた方面地区の住民の粘り腰には敬意を評さざるを得ません。戦前の日本では左翼の弾圧で徳田球一ら共産党の指導者が逮捕され、18年も獄中にいたので〝獄中18年〟組と呼ばれたことがありました。わたしはこれにひっかけて、方面地区の住民は獄にはつながれなかったが、〝獄外18年〟で頑張ったとよく冗談で話します。
 わたしはウラン残土の放置発覚以来、JRの松崎駅からタクシーで20年以上にわたって、方面の榎本さん宅まで往復してきました。つい先日、久し振りに榎本さん宅からの帰りに松崎駅までタクシーに乗ったら、20数年前からわたしを乗せてきた運転手さんがわたしを覚えていて、こう話しかけてきました。
 「あんたも長いなあ。いまはおだやかな顔になっているけど、あのころはかみつかれるかと思うほど、怖い顔をしていた」と話していました。そのころ、わたしは動燃を狙うハンターのように緊張して、闘志満々で精悍な顔付きをしていたのでしよう。

 

3 松枯れ農薬空中散布反対運動

 

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 ところで、わたしが鳥取にUターンしてかかわった環境運動は、青谷原発阻止運動と方面地区ウラン残土撤去運動だけではありません。この2つの運動と並行して、わたしが積極的かつ集中的にかかわった環境運動は、松枯れ農薬空中散布反対運動でした。
 国や自治体は松枯れ対策と称して、大量の農薬をヘリコプターで空中から松林など山野に散布し、とくに鳥取県は全国でも農薬空中散布をもっとも熱心に進めていました。資料4ページの(年表3)「農薬空中散布反対運動」を見れば、その経過がざっと分かりますが、年表をたどるのは時間の関係ではしょります。
 松枯れ農薬空中散布の法的根拠は、1977年に国会で成立した時限立法「松くい虫防除特別措置法」で、この法律は時限立法とはいえ名前を変えながら、その後も継続されてきました。
 全国の被害地の住民・市民たちは、大阪大学助手だった植村振作さんを代表に、反農薬東京グループの辻万千子さんが事務局となって、「松枯れ空散反対全国ネットワーク」を結成し、全国集会を開催するとともに、林野庁や環境庁に空散中止を訴えてきました。
 松枯れ農薬空散の法的根拠となった「松くい虫防除特別措置法」の廃止を求める林野庁交渉が、1991年11月に行なわれたときの申入れ団体をみると、北は宮城県から南は福岡県まで、20都府県107団体が名前を連ねていますが、このなかにはわたしたち鳥取県の諸団体も入っています。
 鳥取県では岩田武彦さんを代表とする「鳥取県農薬空中散布反対ネットワーク」が1991年に結成され、この年の5月23日に14団体で鳥取県知事に松枯れ農薬空中散布中止を求める陳情書を出しました。わたしは「環境ネットワーク・とっとり」の一員としてこの活動を担いました。
 わたしたちが農薬空中散布に反対したのは、①児童など周辺住民に健康被害を与えている②大気や水を汚染し、貴重な昆虫や鳥類などに被害を与え、自然環境を破壊する③松枯れの原因は複合的なもので、マツノザイセンチュウの運び屋のマツノマダラカミキリを殺すための空散は、効果がなく税金のムダ使いだ ― として、農薬空散と予算の計上の中止、および、伐倒駆除・樹種転換を求めました。
 松枯れ対策と称して散布されてきた農薬は、スミチオン(MEP)やセビモール(NAC)です。スミチオンは「低毒性」の農薬と呼ばれてきましたが、①急性毒性(目の充血、ノドの痛み、頭痛など)②慢性毒性(視神経障害、近視、免疫力低下など)③遺伝毒性(突然変異、催奇形性)を持ちます。セビモールはこれらに加えて、発ガン性を持ち「毒物及び劇物取締法」で「劇物」に指定されています。
 わたしたちネットワークのメンバーは空散の影響をたしかめるため、鳥取・倉吉・米子で公共の場所や民家の大気を採取し、そのサンプルを大阪大学の植村振作さんに送って分析してもらいました。植村振作さんは放射能分析の小出裕章さんに比すべき化学毒性分析の市民科学者でした。
 その結果、松枯れ対策で散布した農薬が山林周辺だけでなく市街地まで広く飛散し、学校や遊園地や住宅地などあらゆる場所を汚染していることが分かりました。
 資料5ページの写真は、そのときの試料採取の様子です。ネットワークの女性たちが鳥取駅の大国主の銅像前で、ドラム缶を改造した手作りの大気の採取装置を使って、空散直後の大気を採取しています。
 その右の写真は、農薬の空散で簡易水道の水源が汚染された鳥取市上原地区で、その水源付近の水を採取しているところです。
 その次の左下の写真は、鳥取市の農薬空中散布のヘリコプター基地となった、湖山池にある青島公園の入口の写真で、子供たちが家族連れで遊ぶこの公園そのものが、空散の期間は立ち入り禁止となっていたのです。
 さらに、その右の写真は、ひどい汚染が発覚したその青島公園のキャンプ場のヘリコプター基地の現場で、女性をはじめ農薬空散反対ネットワークのメンバーが汚染土壌の試料を採取している写真です。小さくて見にくいですが、一番右端が試料の分析者でもある大阪大学の植村振作さんです。
 女性は子供とともに放射能や農薬に対する感受性が強く、この青島公園のヘリコプター基地における試料採取の写真に写っているように、女性たちがハンカチで鼻や顔を覆っていますが、採取中に吐き気や頭痛を訴える主婦もいたほどです。
 大阪大学に持ち帰って試料を分析した植村振作さんの測定データは、ここでは省略しますが、その結果を踏まえてこう警告されました。
 「農薬の流出による青島公園のキャンプ場の汚染はひどい。農薬をまいた農地でもこのように汚染されることはない。鳥取市の農薬の取り扱いはあまりにも無神経でずさんだ。空散による大気の汚染もひどく、このような子どもの出入りする公園での農薬散布は非常識というほかない」と。
 わたしたち農薬空散反対ネットワークは、大気や土壌の汚染調査と並行して、散布地区の住民のアンケート調査も実施し、アレルギー性鼻炎やアトピーの子供の症状がひどくなるなど、身体の異常を訴えた報告を何例も確認しました。
 鳥取県西部の西伯郡溝口町の山では、隣町の岸本小学校の児童たちが遠足に来ていて、頭上で松枯れ農薬空中散布に遭遇する出来事がありました。
 やはり鳥取県西部の大山町や中山町の畜産農家や獣医師からは、空散の実施後に牛の流産やへい死、呼吸困難や下痢や食欲不振などの家畜被害の情報が寄せられました。
 むろん、いま取り上げた問題はすべて、農薬空散反対ネットワークが記者会見して事実を公表し、その都度注意を喚起してきました。
 こうしたネットワークの活動の延長線上で、資料5ページの(年表3)「農薬空中散布反対運動」の2004年の項目に上げていますが、わたしは鳥取市大杙1区自治会の区長となった2004年1月、大杙1区の役員会および大杙1区も共有者である滝山18カ村共有入会原野の総会で、いわゆる職権の乱用ならぬ職権の発議で空散の中止を提案し、実際に18カ村共有入会原野への空散中止を竹内功市長に申入れました。空散反対運動の終盤戦とはいえ、自治会の区長の空散中止の申し入れは、異例中の異例だったと自負しています。
 この年の2月には片山善博知事のもとで鳥取県が松枯れ対策の空中散布の実施主体を県から市町村に移すとともに、散布の面積を大幅に縮小する見直し案を提示し、3月には倉吉市と鳥取市が新年度からの空散中止を決定しました。つまり、県の予算と政策に全面的にオンブにダッコだった空散のハシゴが外され、環境面の配慮もあって自治体単独ではやれなくなったのです。
 しかし、松枯れ対策の空中散布は現在も規模を大幅に縮小して、県が「大切な松林」と称する「保全松林」を対象に、鳥取市、岩美町、三朝町、大山町、米子市など9市町で、毎年行なわれています。
 さきにも申しましたが、松枯れはマツノザイセンチュウを媒介する運び屋のマツノマダラカミキリを農薬でやっつければ済む話ではなく、中国から黄砂とともに飛んでくる汚染物質による酸性雨、あるいはまた、最近問題になっているPM2.5なる粒子状物質による大気汚染が複合的にからんでいるので、わたしは環境への影響も含めて農薬の空散に反対です。
 「鳥取県農薬空中散布反対ネットワーク」の代表は、米子を中心に活動した岸本町の岩田武彦さんで、さきに言及した鳥取県連合婦人会会長の近藤久子さんともども、県西部の藤本製薬進出阻止運動や中海淡水化反対運動の傑出したリーダーでもありました。
 その岩田武彦さんは、大山のオオタカやオオサンショウウオなどの保護運動も手掛けられましたが、ご病気で倒れて亡くなられ、近藤久子さんもまた高齢で逝かれました。まことに残念このうえありませんが、鳥取県県西部の環境運動家としては、米子市議でもある中川健作さんが健在なのは心強く、土光均さんたちと島根原発反対運動の先頭に立って闘っておられます。
 ところで、わたしが鳥取にUターンして以後の、つまり1980年代から1990年代にかけては、いわゆるバブル経済の時代で、中曽根康弘の提唱によってリゾート開発や都市再開発などが進められ、田中角栄の列島改造の時代とはまた違った様相で、再び環境問題があちこちで噴き出していました。
 この時期にクローズアップされた環境問題としては、原発問題や松枯れ農薬汚染問題のほかにも、食品添加物、産業廃棄物、ゴルフ場開発、都市再開発、クルマ公害、地球環境問題などがありました。わたしは県内外の環境団体や反原発団体だけでなく、県内の婦人会や青年団や公民館などの学習会や講演会に招かれて、原発問題のほかにもさまざまな環境問題について報告しました。

 わたしのホームページ(http://actdoi.com )に「講演・報告」一覧を掲げていますが、その数を数えると1980年代から2010年代の今日まで100回くらいになります。そのうち、前半の婦人会や青年団や公民館での講演・報告は、原発問題だけでなく食品問題や産業廃棄物やゴルフ場開発などに関係するテーマがおもなものでしたが、後半とくにフクシマ以後の環境団体や反原発団体での講演・報告はもっぱら原発問題が中心でした。

 

結び 山河守りてふるさとあり

  ― 原発再稼働前提の原子力災害対策への根本的批判

 

 「国破れて山河在り」という言葉があります。これは中国の杜甫の詩の冒頭に出てくる一節です。戦乱で国は滅びてしまったが、自然の山河はもとのまま残っている、という意味です。自然の山河があれば生活の再建も不可能ではありません。しかし、現代の日本や世界ではこの言葉が通らなくなりました。
 さきの太平洋戦争までは、激戦地の沖縄のような徹底的な破壊もありましたが、日本列島の都市部は破壊されても、ふるさとの自然の山河は残り、そこで膨大な引揚者を抱え込んで養い、再び都市へと送り返すこともできました。
 太平洋戦争ではいわゆる学童や住民の疎開によって、全国各地の農村に大量の子供たちや親たちが緊急避難させられました。そして、その疎開は受け入れた住民や家族との軋轢と苦しみを与えはしましたが、戦争が終われば疎開した学童や親たちも再び都市に帰って、それぞれ再出発することができました。日本にも終戦直後から高度成長の時代までは、戦争に出征したり不況で失業した人びとを抱え込んで癒す、いわば相互扶助のフトコロがあったのです。
 しかし、今日では、そのような相互扶助のフトコロも農村と都市のリサイクルも成り立ちません。3・11の東北大震災を引き金にした福島原発事故による16万人にものぼる避難民を考えてみれば明らかです。
 このうち、福島県の住民や首都圏の避難者ら1650人は、東日本大震災から2年目になるこの3月11日、国と東電に損害賠償などを求めて、福島・東京・千葉など4地裁に集団訴訟を起こしたばかりです。
 ふるさとは放射能でひどく汚染されて、ふるさとに帰りたくとも帰れない。文字通り、史上に類例のないハイマート・ロス(故郷喪失者)の大群が、いまげんに大量に生み出されているのです。
 そればかりではありません。このフクシマの故郷喪失者を放ったらかして、政府・官庁は全国の原発の再稼働をにらんで「原子力災害対策」の改定を急いでいます。その先兵として、中国電力の島根原発の地元の島根県は、原発から30キロ圏の40数万人の住民を山口、広島、岡山そして鳥取の各県に避難させる計画を立てているのです。
 つまり、原発大事故の〝人質〟として取った40数万人もの住民を、いざ大事故のさいには山口、広島、岡山そして鳥取の4県に〝配給〟するというわけです。こんな途方もなく馬鹿げた話があるでしょうか。そもそも、さきの太平洋戦争でさえ、学童や住民の疎開計画を立てて、戦争に突入したわけではない。戦争の末期に追い詰められ、都市への空襲を恐れてやむなく疎開したのです。
 その太平洋戦争の終戦直後の日本で、物資の〝配給〟が〝闇市〟とともに存在したことを覚えておられる方は少ないと思いますが、わたしにはかすかな記憶があります。島根原発の避難計画は、モノという物資ではなく避難民というヒトの〝配給〟を、各県に割り当てているわけです。わたしはこれを人身売買の〝闇市〟の現代的な形態であると言いたい。
 言うまでもないことですが、原発の再稼働は、地球が太陽の周りを回るといった天体の回転のような、避け難い自然の宿命ではなく、ヒトがやることですから、ヒトの手で止めることもできます。それをあたかも避け難い自然の宿命のように、電力会社や国に言われて自治体の行政が唯々諾々とこれに従う。これは島根県や鳥取県だけではなく、明治以来の〝お上〟に従属した地方の自治体の〝卑屈〟な姿以外の何物でもありません。
 げんに、論より証拠で、フクシマ以後の昨年5月~7月、日本の原発は50基が全部止まっていたが、それでも日本の電力は十分まかなえたのです。野田政権は7月に大飯3、4号機を再稼働させましたが、かりに大飯3、4号機が再稼働せずとも、真夏のピーク時の電力は足りました。
 実際、日本の電力は余りに余っているのです。原発なんか必要ではない。原発が必要なのは、原発をつくればつくるほど、儲かる仕組みになっている電力会社だけです。きょうの会場に置いています、出来たてホヤホヤの中嶌哲演さんとわたしの共編『大飯原発再稼働と脱原発列島』の第七章「大飯再稼働なくても日本の電力は足りる」で、具体的な証拠を挙げて示していますので、興味のある方は参考にして下さい。
 島根原発から30キロ圏には境港市と米子市の7万3000人の住民も含まれます。しかし、フクシマの汚染状況を見れば分かることですが、たとえば汚染のひどい飯館村は原発から50キロです。
 そればかりではありません。本来なら日本の法令で立ち入り禁止にしなければならないようなセシウムの汚染地帯が、放射能雲の通り道に沿って、なんと福島原発から250キロの長野県と群馬県の県境にまで、伸び広がっているのです。
 このサルーテの案内ハガキにある、わたしの『放射性廃棄物のアポリア』の41ページの地図2に、そのセシウムの汚染地図をひと目で分かるように挙げています。
 最後に、わたしは言いたい。こんな広大な範囲で、しかも何十万人もの住民の、とてつもなく恐ろしい避難計画を立てなければならないような、原発がどうして必要なのか、もう止めにしよう、と。
 中国各県の行政当局にも言いたい。こういった大量の避難民を生み出すような、原発の再稼働などとんでもない。終戦直後の配給物資の〝配給〟でもあるまいに、とてつもなく非条理な避難民の〝配給〟計画はゼッタイに受けないでほしい。
 原発の存在や稼働は、太陽の周りを地球が回る避け難い天体の回転とは違い、あくまで人が決めてやることつまり人為・人事に属することです。
 原発周辺の何十万人、全国的には何百万人もの、とてつもなく大量の住民の避難計画を立てねばならないような、そんな厄介な原発はいますぐ止めて、すべて廃炉にしろと訴えたい。それよりも、げんに全国各地をやむなく流浪している、16万人のフクシマの避難民の救済に、全力を上げるべきときではないか、と。
 そういうことを言う自治体が一つもないのは、まったくもって不可思議というよりも奇奇怪怪です。この日本という国も、島根家も鳥取県も、一体どうなっているのでしょうか?皆様はおかしいとは思われませんか?世の中には〝常識〟というものがあるはずです。さきほどからわたしが〝非条理〟〝不可思議〟〝奇奇怪怪〟と言ったことが、もしおかしくなければ、わたしのアタマがよっぽどおかしい、ということになります。率直に皆様のご判断を仰ぐ次第です。
 おとといの新聞報道(共同通信配信、日本海新聞、3月20日)によると、原発事故時の住民避難の方法を自治体がまとめる地域防災計画の策定期限の3月18日までに、地域防災計画をまとめたのは21道府県136市町村(157自治体)のうち、13道府県57市町村でした。道府県は6割超ですが、市町村は4割程度です。
 策定済みには島根県や鳥取県も含まれますが、わたしに言わせれば、大飯原発以外は動いておらず、すべて再稼働はペンディングなのですから、「原発防災」に「メド」を立てる自治体の方が、よっぽどどおかしいので、対象自治体の半分くらいしか地域防災計画を立てていないのは、むしろ健全と言えます。
 「メド」を立てるということは、原発の再稼働を受け入れるということ以外の何物でもない。そこのけそこのけ原発サマのお通りじゃ、にドレイのようにヘイコラ従う方がおかしい。詳細な計画を立てること自体馬鹿げています。そういう当たり前の市民感覚はどこへ行ったのか?
 わたしは 「国破れて山河在り」という杜甫の言葉を裏返して、「山河破れて国もなし」あるいは「山河守りてふるさとあり」と言い替えたい。美しい山河や環境があってこそ、ふるさとありだからです。しかし、3・11以後のフクシマの大惨事は、そのふるさとも自分たちの郷土の枠を超えて考えざるを得ず、この国ないしは列島の山河や環境を守らなければ、ふるさとも喪われることを教えました。
 もうひとつ、中国から飛んでくる黄砂とPM2・5などの汚染物質。10年ほど前、高木仁三郎基金で研究していた水野玲子さんという女性研究者が、鳥取県の死亡率が全国でトップだったか、とにかく異常に高いことに注目して、これはウラン残土の影響ではないかとわたしに問い合わせがありました。
 そのとき、わたしはウラン残土の影響で鳥取県の死亡率がそんなに上がることは考えられない、もしかしたら農薬の使用の影響ではないか、とミス・アドバイスをしました。しかし、いまなら、中国から黄砂ともども飛来するPM2・5のような化学汚染物質の影響を考えるべきではないか、とアドバイスすべきだったと思います。いまや、中国はいわば巨大な四日市で、「四日市ゼンソク」の現代版ないしは広域番たる「PM2・5ゼンソク」とでも呼ぶべき現象の発生源です。
これが四日市から青谷や人形峠を経てフクシマを経験したわたしの結語です。むろん、誰しも身近な地域の環境を守ることが基本であることは、いささかも変わりません。ただ、政治も経済も環境もグローバル化した現代にあっては、“Think Globally,Act Locally”(地球規模で考え、地域で活動する)をモットーにしなければ、といつも自らを戒めて今日に至っています。

 さて、時間になりました。初めは処女のごとく、終わりは脱兎のごとし、の話になりましたが、これにて終わります。ご静聴ありがとうございました。

 

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(追記)本稿は講演メモをもとに、3月22日の講座を復元しました。そのさい、時間の関係で省略した部分も加筆して、補足しました。

 ウラン残土市民会議のホームページ(http://uranzando.jpn.org/uranzando/)と同時掲載です。