核帝国アメリカの世界支配を撃つ

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日時=2018年7月28日
場所=東京・渋谷区立勤労福祉会館
集会=7.28被爆73周年反戦反核東京集会
主催=8.6広島-8.9長崎反戦反核闘争全国統一実行委員会

 

 

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はじめに


 最近の北朝鮮のミサイル発射や非核化の問題を通して、北朝鮮は怖い国だと思われた方もいるかも知れません。しかし、わたしは北朝鮮の肩を持つ気は毛頭ありませんが、ベトナム戦争やイラク戦争を体験・目撃した世代として、核帝国たるアメリカ合衆国こそ、世界でもっともも怖い国だと思わずにはいられません。
 わたしはきょうのこの講演でアメリカを帝国それも核帝国としてとらえ、核帝国アメリカの世界支配のありようを批判したいと思います。というのも、アメリカ合衆国は資料の地図12「世界の核兵器保有国」にあるように、ロシアとともにずば抜けた数の核兵器を保有し、このうち千数百発の戦略核、戦術核を配備して世界を脅迫しているからです。地球的規模の核脅迫政策です。
 資料2「アメリカ最初の13植民地」にありますように、もともとアメリカ合衆国は、北米大陸の東側の大西洋岸にへばりつくイギリスの13植民地からスタートし、独立戦争でイギリスから離脱して合衆国を立ち上げ、インディアン戦争で先住民をせん滅し土地を略奪して、北米大陸を支配する帝国となりました。資料1「おもなインディアン部族の当初居住地」が示す通り、北米大陸の全域には先住民インディアンが住んでいました。

 こうして生まれたアメリカ合衆国は、米西戦争を契機に大陸帝国主義から海洋帝国主義に転身し、第一次、第二次世界大戦を通して世界の覇権を握るグローバルな帝国となりました。そして、第二次世界大戦下のマンハッタン計画で原爆を製造し、広島と長崎に投下して甚大なおぞましい被害をもたらしたことは周知の通りです。
 広島・長崎への原爆投下をもってアメリカは核帝国となりました。第二次世界大戦後の世界は、アメリカ合衆国が強大な経済力と軍事力、なかんずく、核兵器を〝切り札〟としてもつ核帝国として、グローバルな世界支配を押し通し、世界を核戦争と核脅迫の脅威下に置いた時代でした。今日までに核戦争はからくもまぬかれましたが、その瀬戸際までいった事例はキューバ危機だけではありません。
 わたしはまずアメリカ合衆国の帝国形成の足跡をたどり、アメリカ帝国主義とはいかなるものかを明らかにしたいと思います。その前に、講演でひんぱんに出てくる「帝国」と「帝国主義」について一言しておきます。
 「帝国」と「帝国主義」は実にややこしい問題をはらんでいますが、わたしはさしあたり、オックスフォード大学のスティーヴン・ハウが「荒削り」だが「使えそうな概念」として提示している、つぎの概念の意味で使うことにします。
 まず、帝国とは、広大で、複合的で、複数のエスニック集団、もしくは複数の民族を内包する政治単位であって、征服によってつくられるのが通例であり、支配する中央と、従属し、時として地理的にひどく離れた周縁とに分かれる」。「帝国主義は、そのような巨大な政治単位をつくり、保持する行為なり姿勢を指すことに用いられるが、同時に、ひとつの国民なり国が、他を、それほど明確でも直接的でもないかたちでコントロールないし支配する意味でも用いられる。後者のように、公式的ではないたぐいの支配のなかには、文化ないし経済帝国主義などのような言葉を使った方がよい場合もあるかもしれない」。

 

1 インディアン戦争によるアメリカ帝国の形成


 これから、アメリカにおける帝国形成の歴史をおおざっぱにたどりますが、まずアメリカの帝国形成の過程は、インディアン戦争による先住民のせん滅と土地の略奪の過程そのものだったということです。
 イギリスからのアメリカの独立戦争は、アメリカ人による先住民インディアン制圧戦争と同時並行的な出来事でした。それゆえ、イギリス帝国に対するアメリカの反帝国主義戦争は、北米大陸におけるアメリカのインディアン制圧戦争という帝国形成の過程と表裏一体だったのです。
 ニューサウスウェールズ大学のイアン・ティレルとオックスフォード大学のジェイ・セクストンが最近の編著『アメリカ帝国の中の反帝国主義』の「アメリカ帝国主義の研究史」で書いているように、「要するに、アメリカにおいて、反帝国主義は帝国と双子の関係にあった」のです。
アメリカの子どもたちは自分の国は反帝国主義の国だと教えられて育ちました。ほとんどのアメリカの政治家が自らを反帝国主義者だと思っているようです。たとえば、元国防長官のラムズフェルドはつぎのように言っています。「我々は帝国を求めているのではない。我々には帝国主義的な野心はないし、過去においても決してなかった」と。
ところが、そのラムズフェルドも重要閣僚だったイラク戦争突入直前、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』(2003年1月)は「アメリカ帝国 ― それを受け入れることだ」というキャッチコピーを表紙全面に掲げ、「アメリカがなろうとしているのは「帝国」以外のなにものでもない。… 帝国国家になるということは、… 現在ある世界秩序を強制すること、しかもそれを「アメリカの利益」に沿った形で強制することを意味する」という論説を掲載しました。
 わたしたちの世代の者は、イラク戦争以前のベトナム戦争で、「アメリカ帝国主義」との非難を耳にタコができるほど聞いたものです。ベトナム戦争以来、この言葉を聞かず、それが忘れられた古い唄のようになったのは、アメリカ自身がベトナム戦争に敗北したこと、および、のちのソ連の崩壊などと関係があるかと思っていた矢先、イラク戦争で荒ぶる「アメリカ帝国主義」の悪夢が、よりおぞましい姿でよみがえりました。
 そこで、わたしは編集工房朔から出した拙著『終わりなき戦争国家アメリカ』で、アメリカ帝国主義の再定義を試み、米西戦争をもってアメリカの帝国主義的海外膨張の第一歩とする通説には従ったものの、その前段には300年にわたるインディアン戦争という先住民のせん滅と略奪があったことに注意を喚起しました。わたしはそこでインディアン戦争をアメリカ帝国主義の「前史」と呼びましたが、むしろ「正史」と呼ぶべきでした。「正史」つまり「帝国の形成 ― アメリカ帝国主義そのものの歴史」です。
 アメリカの外交史研究者トーマス・A・ベイリーは「合衆国が19世紀を通じて大陸的規模で国内植民地主義と帝国主義とを実施したという点がしばしば看過されている。ヨーロッパ諸国民が膨張したときには海外に出なければならなかったが、われわれが膨張したときには[アメリカ大陸の]西方へ進まなければならなかった」と書いている通りです。つまり、合衆国は征服すべき大陸を持っていたがゆえに、その第一帝国を国内に展開し、… ヨーロッパ諸国民が理解することも試みることもできなかったようなやり方で、領土を国家に編入したわけです。
 オレゴン大学のジェフリー・オスラーは「帝国と植民地支配に抵抗するアメリカ先住民」という論文で、「北米大陸でのアメリカによる帝国建設のプロセスは、明確に帝国主義の一例としてその範疇に入れることができる」と断言し、「アメリカによる北米大陸での帝国建設とそれに抵抗し非難するインディアン」の言葉を「政治的・経済的自治を保持する彼らの反帝国主義運動として、また従属状態から脱出する彼らの反植民地運動として」理解しています。
 長い間、歴史家は、1870年代のイギリス首相ベンジャミン・ディズレーリによる海外での冒険的外交政策に関して、19世紀ヴィクトリア時代の批評家たちが「帝国主義」という言葉を造語したと信じてきました。ところが、アメリカでは、「帝国主義」という言葉自体が、海外ではなくて国内問題との関係で使われていました。アメリカにおける「帝国主義」という言葉の最初の使用は、海外での領土膨張ではなく、国内政治や連邦政府の権力と関係していたのです。
 もともと、アメリカを独立へと駆り立てたのは、アパラチア山脈以西への進出が1763年のイギリスの国王宣言で制限されたため、それを越えて西部へ西部へと領土を拡大していく帝国建設あるいは帝国主義的膨張の意図に基づいていました。
 連邦権力に支持された白人開拓者による土地の収奪に抵抗したアメリカ先住民の戦いは、まさしく反帝国主義の最たるものです。
それゆえ、独立戦争後も止まることを知らない白人の土地取得の欲望、そして、これを後押しするアメリカ諸州と連邦政府の膨張政策は、「自由の帝国」の理念のもと西漸運動(西漸とは西へ西へと進む意味)を加速させ、インディアン諸部族の抵抗に会ったのです。
 オックスフォード大学のジェイ・セクストンは「南北戦争期における「アメリカ独立宣言の帝国主義」」でこう言っています。南北戦争期のアメリカ人の多くは、西部の征服を反帝国主義が必然的に成就されることとして、西漸運動は、外国からの移住者を引きつけた「自由の帝国」に人々が居住するという伝統的な言葉でしばしば語られましたが、「「西部の獲得」が、アメリカ国内で起こったことであっても、アメリカ帝国主義の頂点を印すことは明らかである」と。
 むろん、先住民諸部族が手をこまねいて白人の略奪を見ていたわけでないことは言うまでもありません。まさに、〝西部戦線異常あり〟で、インディアンは個別に、あるいはまた、連合を組んでこれに抵抗しました。
 たとえば、1675年にはワムパノアグ族のメタカムが同盟を結んだニューイングランドのインディアン連合軍の戦いがありました。英仏戦争が終結した年に当たる1763年には、カリスマ的な指導者にして雄弁家だったオタワ族のポンティアク率いる五大湖地方の西部諸部族(西部というのは、現在の合衆国の西部ではなく、当時のアメリカ植民地の西部という意味です)のインディアン連合軍の戦いがありました。
 1785年ごろには親英派のモホーク族長ジョーゼフ・ブラントを指導者とする北西部諸部族のインディアン連合軍の戦いが起きました。1805年から1811年にかけて、ショーニー族の戦時族長を父とし、クリーク族の母をもつテクムシが、北は五大湖から南はメキシコ湾まで精力的に遊説して回り、インディアン民族全体の大同団結を広く呼びかけました。しかし、これらの戦いは実を結びませんでした。300年にわたったインディアン戦争は、先住民300人が騎兵隊に殺害された1890年のウーンデッドニーの虐殺をもって終わりました。
 なにぶんにも多勢に無勢で、アメリカ先住民の敗退は、途絶えることなき圧倒的な白人入植者の人員に加えて、機関銃や大砲などの近代兵器、および、白人がもたらした「旧世界の細菌部隊」ないしは「もうひとつの殺人部隊」とも呼ぶべき伝染病によるものでもありました。
 わたしの最初のアメリカ批判の著『アメリカ新大陸の略奪と近代資本主義誕の誕生』(編集工房朔発行、星雲社発売、2009年)でも書いたことですが、インディアン戦争についての話を終えるに当たって、政治思想に関わる問題で一言付け加えておくことがあります。イギリスの著名な政治思想家ジョン・ロックはアメリカの先住民社会について、たとえ一部の土地が耕作されていたとしても、土地が労働による改良を受けていないので、先住民には土地の所有権はないとしています。ロックが言うには、大地のような自然の共有物のうち所有権をつくりだすのは労働であって、この所有と労働の理論こそが、ロックのパトロンたるシャフツベリー伯爵のカロライナ植民地はもとより、イギリスの植民者による土地収奪を正当化するものだったのです。こうして、ロックは自由主義に立脚した近代市民革命の理論家であると同時に、有力な近代植民地主義の理論家でもあった、という両義性において再考されねばならないことが明らかとなるわけです。
 アメリカの海軍大学校のケネス・ヘイガンとニューサウスウェールズ大学のイアン・ビッカートンは『アメリカと戦争』で、歴史家マイケル・ローギンの言葉を引いて強調しています。土地を獲得するためにアメリカ人の入植者や政府は「陰謀、詐欺、暴力」などの方法を駆使して「先住民に対する総力戦状況」をつくり出したが、この「先住民に対する殲滅戦略」で採用された多くの「方針や戦術」はアメリカ合衆国ののちの戦争でも採用された「方針と戦術」にほかならず、それらは「まずもって先住民に対して実践されたのであった」と。

 

2 第二次世界大戦でグローバルな世界の覇権を確立したアメリカ


 ウーンデッドニーの虐殺をもってアメリカ合衆国のインディアン掃討戦が終わると、合衆国の国勢調査局は1890年の国勢調査報告書に「フロンティアの消滅」を記載しました。アメリカの歴史研究者フレデリック・ターナーは「アメリカ史におけるフロンティアの意義」を提唱しましたが、この「フロンティア学説」は直ちに「帝国主義的膨張学説」に変貌しました。1898年の米西戦争に始まるというのが通説ですが、このときまでにアメリカは大膨張をとげていました。地図3「アメリカ合州国の領土の膨張」を見て下さい。1919年スペインからの譲渡でフロリダを獲得、1803年フランスからルイジアナを購入,1845年メキシコから独立したテキサスを併合、1846年イギリスよりオレゴンを割譲、1848年にメキシコとの戦争でカリフォルニアと二ューメキシコを獲得しました。
 1848年にはカリフォルニアで金鉱が発見され、白人を満載して西部に向かう幌馬車隊が波状的に大平原をえ、怒涛のように西部に押し寄せました。1862年にリンカン大統領が制定した太平洋鉄道法により大陸横断鉄道の建設が始まり、1869年には東西が結ばれました。こうして、大西洋と太平洋を結ぶ巨大な大陸帝国が成立しました。
 通説では、アメリカ合州国は1898年の米西戦争を持って帝国主義的海外膨張を開始するということになっています。米西戦争は「スペイン=キューバ=アメリカ戦争」であると同時をに、「スペイン=フィリピン=アメリカ戦争」でもあり、スペインからのキューバやフィリピンの民族独立運動を利用して、アメリカが海外に進出し領土を獲得した史上最初の帝国主義戦争でした。
 このように、アメリカの帝国主義的な海外膨張は、1898年の米西戦争がスタートと考えられていますが、アメリカ海軍省分析センターの関連資料によれば、アメリカ海軍は米西戦争以前の1869年から1897年にかけて、アルゼンチン、ブラジル、チリ、ニカラグア、パナマ、コロンビア、その他のラテンアメリカ諸国との海運貿易においてアメリカ商船を守るために5980つまり6000近くもの寄稿港を確保していました。
 それと合わせて、アメリカの太平洋進出がありました。地図4「アメリカの太平洋進出」はアメリカが太平洋諸島を併合していった軌跡を示したものです。アメリカ合州国はすでに南北戦争(1861~1865年)以前の1853年にペリー艦隊を日本に送って開国を迫り、南北戦争後の1867年米軍艦が訪れたミッドウェー島の領有を宣言し、ロシアからアラスカを購入しています。
 さらに、1894年にカメハメハ王朝最後の女王リリウオカラニを退けてハワイ共和国を成立させ、1898年には議会がハワイ併合を決議しています。1898年の米西戦争でエルトリコ、グアム、フィリピンを領有し、1899年イギリスおよびドイツとの交渉で東サモアを獲得、ケーブル施設建設のためウェーク島の領有を宣言、世紀が変わるやパナマ運河の建設に着手して1914年にはそれを開通させています。
 第二次世界大戦下の太平洋を舞台とした日本との太平洋戦争こそ、いま見たアメリカの帝国主義的海外膨張による太平洋制覇の総仕上げだったのです。

 第二次世界大戦はアメリカ合州国がグローバルな世界の覇権を最終的に確立した世界史的事件でした。第二次世界大戦は、ファシズムの日独伊の枢軸国側、および、反ファシズムの英仏米ソの連合国側の対立という構図を取って戦われました。
 アメリカ政府の第二次世界大戦に対する対応は、第一次世界大戦のときと驚くほど酷似し、いずれもアメリカ国民の孤立主義の感情を考慮して、大統領が最初は正式に中立を宣言し、「戦争に巻き込まれない」と公約して大統領選で再選もしくは三選されますが、その裏では参戦に導く多くの措置を講じて機会を待ちました。第二次世界大戦について言えば、1941年12月8日の日本の真珠湾攻撃による太平洋戦争の勃発こそ、その願ってもないチャンスを意味しました。それはアメリカのヨーロッパ戦線への参戦の免罪符を、世界のみならず孤立主義の感情が根深い自国民に劇的なかたちで与えることになったのです。
 1945年2月にクリミヤ半島のヤルタで連合国の三首脳、つまり、フランクリン・ローズヴェルト、ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンは第二次世界大戦の戦争終結と戦後処理について協議し、戦後の枠組みを決定しました。しかし、ローズヴェルトは急逝し、7月のベルリン郊外のポツダム会談で連合国の三首脳のハリー・トルーマン、チャーチル、スターリンの協議で、ドイツの共同管理を決め日本の無条件降伏を要求しました。
 太平洋戦争の発端をなす真珠湾攻撃の情報がツツ抜けで、アメリカは暗号解読により計画を事前に知っていました。太平洋戦争は石油の禁輸に始まる一連の経済的圧力によって、日本を瀬戸際まで追い込んだ結果でもありました。太平洋戦争における日本軍の破竹の進撃も、1942年6月のミッドウェーの海戦で手痛い敗北を喫し、このあとのガダルカナルの戦いの敗北を転機に、日本軍は一歩一歩後退を重ねていき、米軍は1944年10月にフィリピンに上陸し、レイテ沖海戦で日本軍の連合艦隊はほとんど壊滅します。地図5「アジア太平洋戦争の日本占領地域」は、太平洋戦争で日本が占領していた広大な地域の範囲を図示したものです。
 1944年11月から本土空襲が始まり、米軍は1945年4月に沖縄に侵攻し、6月にかけての凄惨な沖縄戦では沖縄県民の4分の1を超える20万人を超える犠牲者が出ました。8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下を受けて、8月14日に天皇が招集した御前会議で戦争終結を決定し、翌8月15日の玉音放送で国民の知るところとなりました。こうして、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することになったのです。

 

3 マンハッタン計画による広島・長崎への原爆投下とビキニの被災


 広島と長崎に投下された原爆がアメリカのマンハッタン計画によるものであることは周知の通りです。よく知られている通り、マンハッタン計画の一押しとなったのは、ハンガリー人物理学者レオ・シラードの要請でアインシュタインが1939年8月、ローズヴェルト大統領にあてて書いた一通の手紙です。
 もともと、ヒトラーより先に原爆を ― で始まったマンハッタン計画は、戦争が終わるより先に原爆を、のレースに変わりました。1945年春、ニューメキシコ州アラモゴルドの原爆実験の数カ月前にナチス・ドイツの敗北は現実のものとなり、ドイツはすでに打ちのめされていたのに、マンハッタン計画の技術担当最高責任者だったアメリカ陸軍工兵隊のレスリー・グローブス准将は、原爆を対日戦に使用するため生産を急ぐよう部下に督励しました。ちなみに、グローブズはインディアンとの戦いを指揮したシェリダン将軍を敬愛した男だったそうです。.
 ドイツの敗北が現実のものとなるや、シラードをはじめヨーロッパからの移住者は原爆を製造するそもそもの動機を失い、シラードが研究に携わっていたシカゴでは科学者たちが原爆の使用に反対するようになりました。多くの科学者、軍人、政治家が兵器としての使用を見合わせるよう発言しました。その理由の一つはもはや原爆を使う必要がないというものです。原子力の将来政策を勧告するため設置された当時の大統領委員会で、科学班のアーサー・コンプトンはシカゴの科学者たちの意見を背景に、いきなり原爆を投下する事態を避ける方法はないか、原爆は海上または島の上で原子兵器の威力を日本人に見せつけるという形で爆発させられるはずではないか、と問いかけました。
 しかし、トルーマン大統領は原爆の使用に反対する意見をことごとく斥けました。日本への原爆投下の最終的な決定を下したのはトルーマンです。「それ(原爆)を発射したのは僕なんだ」と語った男です。かれは原爆について疑念を持ちませんでした。かれは責任感をもって原爆投下の書類に署名しました。かれが広島への原爆投下のニュースを聞いたのは、ポツダム会議からの帰路でしたが、「これは史上最大の出来事」とかれは宣言しました。
 写真1「広島原爆」は広島のきのこ雲です。そして、写真2「長崎原爆」が長崎のきのこ雲です。
 原爆投下による被爆時の広島市の人口は、一般市民28万から29万人、これに軍関係者や徴用労務者などを合わせて34万ないしは35万人と推定されます。ワシントンの暫定委員会は原爆によって2万人が死亡すると推定していましたが、広島市・長崎市・原爆災害誌編集員会編『原爆災害ヒロシマ・ナガサキ』は、被曝後急性期の総死亡者数は9万人から12万人と推定しています。一方、被曝時の長崎市の人口は24万人と見られていますが、被爆時の死者数は6万人から7万人と推定されています。
 広島と長崎に原爆を落とす必要があったのか否かについては、いまなおアメリカの歴史家や政治家の間で議論がありますが、①アメリカの上陸作戦による50万ないしは100万人の犠牲を避けられた②日本の降伏を早めることになった、というのが原爆投下賛成論の共通点です。しかし、1946年に日本に派遣された戦略爆撃調査団の報告はこれと違って、「戦争を終結させた日本の指導者たちの証言によると、原爆は日本の指導者に無条件降伏を受け入れさせる力にもならなかった」と言っています。
 トルーマン大統領は、原爆はあたかも神権によって、アメリカに授けられた「神聖な信託物」とまで言い始めました。グローブス将軍からの助言でソ連が原爆を開発するには20年かかると考えていました。ところが、広島・長崎から4年後の1949年8月、ソ連は同国最初の原爆を爆発させ、世界を驚かせました。イギリス(1952年)、フランス(1960年)、中国(1964年)と核保有は続き、米・ソ・英・仏・中の五カ国が核クラブを形成しますが、この五カ国は国連の常任理事国で拒否権も与えられています。
 トルーマンは1950年3月、水爆製造の決定を下しました。この決定はリリエンソール委員長以下、原子力委員会(AEC)の多数意見の反対を押し切って下されたものです。1952年11月、太平洋のエニウェトク環礁の中のエリュゲラブ島で暗号名〝マイク〟と呼ぶ一つの実験が行われました。核時代の第二段階、つまり水爆段階に入ったのです。水爆は核分裂爆弾の原爆とは異なる核融合爆弾ですが、水爆の起爆剤には原爆が使われています。〝マイク〟の実験に立ち会った科学者によれば、巨大な火の玉が「数百万トンのサンゴを吸いあげながら」、その小島を焼き尽くし、「海水は蒸気に変わった」と言います。写真3は「エニウェトク環礁の水爆実験」です。 
 エリュゲラブ島を荒廃させた〝マイク〟は12メガトン(TNT火薬で1200万トン)で広島原爆の1000倍の威力でした。その1年4カ月後の1954年3月、ビキニ環礁で行われた〝ブラボー〟の実験は〝マイク〟の半分の大きさなのに、17メガトンの力で爆発しました。爆発そのものは、780平方キロの範囲にしか被害を及ばなかったのですが、死の灰による汚染は1万8000平方キロの範囲に及びました。危険水域と宣言された水域をわずかに外れた爆発地点の東方140キロにいた焼津の漁船、第五福竜丸が被災し、乗組員23人が放射能に冒され直ちに久保山愛吉さんが死亡したことは周知の通りです。
 しかし、ビキニの水爆実験で被災した漁船は第五福竜丸だけではなく、死亡したのも久保山愛吉さんだけではありませんでした。実は、青森県から鹿児島県まで全国の992隻つまり1000隻近くの漁船が危険区域に出漁し、多くの漁船員が被曝していたのです。地図6「ビキニ水爆実験の被災漁船の所在地全国分布」は、それら漁船の所在地の分布です。
 「原爆マグロ事件」の名で知られる漁船員たちのとんだ災難は、核実験に対する日本の全国的な抗議運動の発火点となり、ほぼ一夜のうちにわたしたちは広島と長崎の埋もれた記憶をよみがえらせました。抗議運動はたちまち国際的なものに発展し、哲学者バートランド・ラッセルと物理学者アインシュタインが中心となって、1957年7月に反核声明「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表され、この宣言は同年の科学者たちによるパグウォッシュ会議の創設につながりました。
 しかし、米ソがお互いに原水爆を持ったことで、核競争は劇的にエスカレートしました。1963年8月から1973年6月までの10年間では、アメリカ259回、ソ連121回、つまり核実験は年平均38回の割合です。地図6「主な大気圏核爆発地点の回数と爆発威力」は、おもな大気圏核実験場と核爆発回数及び爆発威力を示したものです。
 この間、マンハッタン計画の戦後版として、リコーバー海軍大佐の指揮のもとで、原子力発電の開発が原子力潜水艦の開発とともに進められました。リコーバーは1954年に進水した「ノーチラス号」と名づけた最初の原潜のために最初の軽水型原子炉をつくりました。かれはもう一つの原子炉をペンシルベニア州のシッピングボートで、1957年に操業を開始した最初の原発のためにつくりました。その原潜と原発をともに担ったのが、その後の原発市場を二分する二大多国籍企業のウェスチングハウス(WH)とゼネラル・エレクトリック(GE)でした。
 アメリカのアイゼンハワー大統領は1953年12月8日の国連総会で、「平和のための原子力」(アトムズ・フォア・ピース)という有名な演説を行ないました。この演説はアイゼンハワーのスピーチライターで宣伝家でもあるC・D・ジャクソンがまとめたもので、あたかも原爆の悪魔祓いのような宣伝効果を発揮しました。新聞、ラジオ、テレビはこれに関する記事や広告であふれ、アメリカの放送局は「ガンとの戦いでも原子力」「のこぎりの代わりに原子光線による木材伐採」「原子力機関車の設計」「原子力の温室」「原子力動物園」「医師のための原子力」などの宣伝用フィルムを粗製乱造しました。
 しかし、この「平和のための原子力」が、その後の原発の世界拡散という結果をもたらし、1986年のソ連チェルノブイリ原発事故、2011年の福島原発事故の大惨事を招いたことは周知の通りです。これらの原発事故はまるで限定核戦争級と言っていいかと思います。原発の拡散は原発を通した核兵器の拡散を意味します。日本では、高速増殖炉「もんじゅ」と青森県六ケ所村の再処理工場が、隠された核武装あるいは核兵器生産の技術的能力の担保という意味を持っています。

 

4 第二次世界大戦後の核帝国アメリカの世界支配


 第二次世界大戦後の米ソの冷戦構造が最初に生み落とした悲劇は朝鮮戦争でした。朝鮮民族は日本の侵略と植民地支配の犠牲になり、太平洋戦争の終結で解放さるべきだった自己の運命を台無しにされたわけです。この戦争の結果、朝鮮半島の運命は北緯38度を南北分断線として米ソ両国の影響下に置くという勝手な線引きで決められました。
 1950年6月、韓国に侵攻した金日成の北朝鮮軍は国連軍を追い詰めて釜山に迫りましたが、国連軍に追い返され38度以北まで追撃されました。ここで、毛沢東の中国が参戦し、一進一退の攻防の末、中国軍は平壌を占領して、国連軍を38度線近くまで押し返しました。地図7「朝鮮戦争」は、朝鮮半島における国連軍と北朝鮮軍と中国軍の攻防を示したものです。
 朝鮮戦争ではトルーマンの原爆使用の発言やマッカーサーによる原爆使用の提案が知られています。アメリカ軍が朝鮮半島で中国軍に押し戻されたとき、トルーマン大統領は1950年11月30日の記者会見で、原爆使用もあり得ると語りましたが、米ソ冷戦の最中、イギリスのアトリー首相がワシントンに飛ぶなど、いったいアメリカは国連をどこに連れて行こうとしているのかとの疑心暗鬼を呼び、北大西洋条約加盟諸国からあわただしい抗議の電文がアメリカ国務省に殺到しました。
トルーマンは戦争拡大派の国連軍総司令官マッカーサーのように、本気で原爆の使用を考えていたわけではありませんでした。それゆえ、中国本土の爆撃や原爆の投下を統合参謀本部に要請したマッカーサーを解任しました。
 のちに、マッカーサーは「もしくは30発から50発の原爆を使用し」、朝鮮半島全域に「放射能汚染地帯」を拡大するつもりだったというのだから、そら恐ろしい話です。
トルーマンのあと「朝鮮戦争の終結」を公約に掲げて大統領に当選したアイゼンハワーは仲介者を通じて、アメリカはソ連に対して核兵器の使用を考慮しているとの情報を流し、脅迫しました。これを背景に1953年7月、休戦協定が成立しました。
 核戦争の瀬戸際に立ったキューバ危機を挟んで、朝鮮戦争に続いてベトナム戦争が起きました。ちなみに、キューバ危機ではケネディ政権の高官たちは、3分の1か2分の1の確立で核戦争に入ると考えていたそうです。
 アメリカがインドシナに介入する理論的根拠となったのは、ドミノ理論です。これはインドシナが共産政権に支配されるなら、近隣諸国や東南アジアの全諸国が将棋倒しのように共産化されるという考え方です。ウィルソン大統領が第一次世界大戦で唱えた民族自決と正反対に、アメリカはインドシナの解放と独立を訴えるホー・チ・ミンではなく、その植民地化を永続させたい旧宗主国の帝国主義フランスのインドシナ支配の側に立ったのです。
 1954年5月、ハノイ西北のディエンビエンフーの陥落直前、アイゼンハワー政権はフランスに原爆の提供を申し出ています。すなわち、1個以上の原爆をインドシナ国境沿いの中国に対して、また2個をディエンビエンフーを包囲するベトミンに対して使用したらどうかという申し出でしたが、フランスは断りました。
 アイゼンハワー政権を引き継いだニクソン大統領は、ベトナム戦争で秘密裡に核戦争の臨戦態勢入りを指示し、世界を破滅寸前に追い込みました。アメリカのジャーナリスト、ジェームズ・キャロルの『戦争の家』によれば、1969年10月10日から月末まで、米軍は何の説明もなくグローバルな臨戦態勢入りをニクソンに命じられたというのです。知らぬはアメリカ国民ばかりなりで、ニクソンの下でアメリカは核戦力の臨戦態勢に少なくとも3回入ったということです。
 1964年8月のトンキン湾事件は大ウソのでっち上げでしたが、これを機にアメリカは北爆を開始し、ベトナム戦争に本格的に介入します。1961年から10年間に及ぶ枯葉作戦では、数百キロのダイオキシンを含む10万トンの薬剤が、南ベトナム全域の20%に散布され、流産や死産が相次ぎ先天性の奇形児もおびただしく、結合双生児のベトちゃんドクちゃんを〝氷山の一角〟とする深刻な健康被害を住民にもたらしました。米軍などの帰還兵にも被害が及びました。1968年3月のソンミ村虐殺事件では、その犠牲者に妊婦25人、乳児35人、少年少女217人が含まれていました。
 しかし、アメリカの北爆は功を奏さず、最大54万人もの兵力を南部に投入しましたが、南ベトナム全土の解放勢力による1968年1~2月のテト攻勢と呼ばれる一斉攻勢に会い、世界的規模のベトナム反戦運動の圧力にも押されて、ジョンソン大統領は北爆の一時停止を発表し、1973年3月南ベトナムからの米兵の撤収が完了しました。
 世界のウルトラ超大国アメリカがアジアの小国ベトナムに敗れました。無数のアリが寄ってたかって巨象を倒したのです。
 第二次世界大戦後の世界は、アメリカによる地球的規模の核脅迫政策が荒れ狂った時代でした。朝鮮戦争やベトナム戦争、あるいはまた、キューバ危機は、あくまで〝氷山の一角〟にすぎません。アメリカの核問題の専門家ジョゼフ・ガーソンは『帝国と核兵器』のなかで、「ほとんど探求されたことのない破滅的なアメリカの核のテロリズムと脅迫の歴史」のリストと年表「核脅迫の事例」を挙げ、つぎのように書いています。
 「この歴史のなかで最悪の時はいくどもあった。一九四六年、トルーマン大統領は、もしソ連がただちにイラン北部のアゼルバイジャン州から撤退しなければ、モスクワを壊滅させると脅かした。アイゼンハワー大統領は、アジア、中東、ラテンアメリカなどで危機に際して核脅迫を繰り返した。キューバのミサイル危機もあった。ジョンソンとニクソンはともにベトナムでの核兵器使用を準備・脅迫し、中東戦争でもおなじことをおこなった。「カーター・ドクトリン」も、石油の豊富なペルシャ湾でアメリカの支配権を維持するために「必要な、いかなる手段」をも使うと脅迫していた」「この歴史は、ブッシュとビル・クリントンが冷戦後におこなった核脅迫が、変化よりもむしろ継続性を反映するものであったことを明らかにしている」と。


5 「宇宙の真珠湾攻撃」としての9.11事件を口実とした史上最大の謀略事件


 べトナム戦争とともに一世を風靡した帝国や帝国主義なる政治用語も、ベトナム戦争におけるアメリカの敗退以後だんだん使われなくなり、ベルリンの壁崩壊やソ連の終焉という歴史の現実を目の当たりにして、1980年代から1990年代になると、左翼の政治用語からもすっかり消えてしまいました。
 一方、西側陣営を見ると、アメリカの政治学者マイケル・クレアの『冷戦後の米軍事戦略』が伝えるところによれば、巨大な産軍複合体を抱えた米軍は、「冷戦の終結によって計り知れないほどの衝撃」を受けました。米軍指導部は深刻な「アイデンティティの危機」に陥り、この歴史上もっとも重大な時期に、国防総省は「舵なし」の状態になってしまいました。ソ連の崩壊でワルシャワ条約機構もワルシャワ条約軍も廃止されたのだから、ア軍備大規模な軍備の温存と予算の確保を前提にした新たな軍事態勢の構築にとりかかりました。パウエル大将は「ソ連の出方がどうであれ、我々はドアの外側に、『超大国はここに健在なり』の看板を出しておかねばならない」と言明しました。
 そこで考え出されたのが、ソ連に代わる新しい仮想敵のフランケンシュタイン、つまり、「ならずもの(rougue)戦略」とか「ごろつき(rougue)ドクトリン」と呼ばれる新しい「悪魔学」でした。イラスト1「アメリカのフランケンシュタイン」は、そのもじりです。
 それは敵対的な強大な軍事力を持ち、大量破壊兵器の製造に着手しつつある北朝鮮、イラン、イラク、リビア、シリアの「ごろつき」五カ国、および、中国、エジプト、インド、パキスタン、韓国、台湾、トルコの「ごろつき候補」の七カ国です。しかし、新戦略は軍備のいちじるしい縮小を回避するため、同時に2つの敵と戦う戦力を想定することに落ち着きました。
 それにしても、アメリカがこの軍事戦略を発表した1990年8月2日、サダム・フセインのイラク軍がクウェートに侵攻したのは、何という奇しき歴史の偶然だったのでしょうか。実は、アメリカは駐イラク大使のエイプリル・グラスピーをフセインと対談させ、「かりにイラクがクウェートに侵攻しても、アメリカが強く反対することはない」とフセインを焚きつけたのです。ところが、アメリカはイラクが実際に侵攻すると、多国籍軍を募って逆にイラクを攻撃し爆撃することになったのです。イラクはアメリカのペテンにかかり、裏をかかれて見事に〝はめられた〟わけです。
 ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(イラク戦争のときのブッシュ大統領の父親、パパ・ブッシュ、ブッシュ1世)は、イラクのクウェート侵攻以前に練り上げていた〝砂漠の嵐〟作戦に着手しました。アメリカは多国籍軍指揮官シュワルツコフ率いる米軍兵士100万人と同盟軍の兵士50万人からなる地上部隊を動員して、イラク軍と大規模な地上戦を展開しましたが、わずか45日間の驚くべき短期決戦でイラク軍は降伏しました。湾岸戦争は「ごろつき除去」の最初の実験場となったのです。
 ブッシュ大統領は湾岸戦争終結の翌日、アメリカの圧倒的な軍事力の優位を前に、敵対勢力は合衆国への挑戦に二の足を踏むことになるだろうと公言し、「人々はわれわれに耳を傾けることになるに違いない。それゆえ、私は、湾岸戦争の結果から新たに見いだされた ― いいかえるならば再構築された ― わが国の威信が確固として回復したと考える」との声明を発表しました。その⒉日後の米連邦議会では「新世界秩序」を宣言しました。
 ヘイガンとビッカートンの『アメリカと戦争』は、この大統領の発言に「強大な軍事力によって生み出された過度の自信と、そうした傲慢さから生じる危険」を見ています。わたしは、と同時に、そこには20年前のベトナム戦争の歴史的敗北から米ソ冷戦終結を経て、その地に堕ちた威信をいわば敗者復活戦の巻き返しの湾岸戦争で回復したとの自負がある、と考えます。
 パパ・ブッシュの「新世界秩序」を目に見えるかたちで押し出したのが、出来の悪いブッシュ2世のイラク戦争でした。しかし、このイラク戦争を実行するには、きっかけとして新たな宇宙的規模の真珠湾攻撃を自作自演でつくり出す必要がありました。
 9・11事件の1年前、ブッシュ政権の背後勢力の新保守主義「ネオコンサーバティブ」(略してネオコン)の政策理論集団「アメリカの新世紀プロジェクト」(PNAC)は、「壊滅的規模で、触媒として働くような何か新しい真珠湾攻撃のような出来事」が必要だと主張していました。9・11事件の8か月前、「アメリカの新世紀プロジェクト」の一員だったドナルド・ラムズフェルドの委員会も「宇宙の真珠湾攻撃」のような出来事によってのみ「国民を奮起させ、米国政府に行動を取らせることができるだろう」と繰り返していました。
 米外交問題評議会の上級メンバーのニコラス・ロックフェラーは9・11事件発生の1カ月前に、つぎのような話を聞かされていたということです。これから起きる「ある出来事」によって、米軍はアフガニスタン続いてイラクに侵攻して油田を確保し、中東に軍事基地を構築してこれらの地域を「新世界秩序」に取り込むが、これらの米軍侵攻のすべてが「巨大なでっち上げ」である、と。予告通り、9・11事件が起きました。
 2001年9月11日、ニューヨークとワシントンを襲った9・11米同時多発事件は、計4便の航空機機がそれぞれハイジャックされ、世界貿易センタービルやペンタゴン(米国防総省)に突入したり、あるいは、墜落したとされる出来事です。地図10は「ハイジャック機の飛行経路」です。
 まず、わたしが編集工房朔の『終わりなき戦争国家アメリカ』で注目したように、9・11事件はアメリカの史上最大のデッチ上げ事件または謀略事件と見ます。わたしはトンデモ史観から出鱈目を言っているのではありません。わたしのデータ・ベースは、アメリカの神学者デヴィッド・グリフィンの浩瀚な研究である『⒐・11事件は謀略か』や『9・11事件の矛盾』です。
 著者の専門は神学ですが、これは神学上の難しい論議ではありません。プリンストン大学の国際法学者リチャード・フォークが前著への序文で、「骨身を惜しまず綿密に証拠を吟味」し「米国政府の公式見解と入手可能な最良の情報」の不一致点を具体的に検証して、9・11事件がアメリカ政府の関与もしくは共犯なしには起こり得なかったことをあぶり出した「驚くべき本」です。
 2001年の9・11事件から20年近く経ちますが、アメリカ政府の公式見解が少しも変更されず世間で通用していることに、わたしは驚きを禁じ得ません。つくづく、歴史はウソで固められていくのだな、そのウソが巨大であればあるほど、と思わずにはいられません。この場でわたしは皆様にあらためて注意を喚起したい。9・11事件はアメリカ政府高官の関与もしくは共犯を否定できない巨大な ― おそらく史上最大のデッチ上げの謀略事件である、と。
 9・11事件は当日の事実にのみ論点を限定しても、①ハイジャック機は通常の対応が取られていたら、ニューヨークの世界貿易センタービルやワシントンのペンタゴンなど、標的に到達する以前に撃退できたはずだ②世界貿易センタービルは航空機の衝突では崩壊しない、ビル内に仕掛けられた爆薬で爆破・解体されたのではないか③ペンタゴンに航空機が衝突したという痕跡や物的証拠はなく、むしろミサイルか軍用無人機によって激突されたのではないか④ペンシルヴェニアで撃墜されたとする航空機は、米軍のミサイルによって撃墜されたのではないか ― といった疑惑があります。
 アメリカ政府の公式説明によれば、9・11事件はウサマ・ビンラディンを頭目とするアルカイダの犯行とされています。ハイジャック犯の大半は、サウジアラビア国籍です。9・11事件の直後に、アメリカ政府はまるで予定稿のように、ハイジャック犯の実行犯としてモハメド・アタをはじめ、19人のアルカイダに属するとするテロリストのリストを発表しました。しかし、驚くなかれ、世界貿易センターやペンタゴンに激突、あるいは、ペンシルベニアで墜落したとされる少なくとも7人は生きていることが確認されています。ということは、9・11事件でもくずと消えたはずのハイジャックの実行犯のうち、これら7人は幽霊かねつ造による冤罪の犠牲者ということになります。しかも、アメリカ政府はこの生きている7人も含めてハイジャック犯の調査を凍結し、FBIにいたっては最初に発表した犯人のリストを一切変更しませんでした。まったくもって不可思議千万です。
 9・11事件直後、アメリカはウサマ・ビンラディンをスケープ・ゴートに仕立て上げ、ビンラディンとアルカイダの引き渡しを求め、それがタリバン政権によって拒否されるや、タリバン政権に自衛権を発動すると称して、10月7日からアフガニスタンへの空爆を開始します。アフガン戦争では無人機攻撃が初めて実戦で使用されました。
 しかし、アフガン戦争はもとからして、カスピ海周辺の石油・天然ガス資源をアラビア海に運ぶパイプラインの建設という動機に発するもので、中央アジアの重要資源へのアクセスと軍事的プレゼンスの確保こそ眼目でした。
 ブッシュ大統領は2002年10月の一般教書演説で、イラクをイラン、北朝鮮とともに「悪の枢軸」と呼び、アメリカは「世界で最も破壊的な兵器によってわれわれを威嚇する世界でもっとも危険なこれらの国を決して赦すことはない」とぶち上げました。ブッシュはこの年の陸軍士官学校の卒業式の演説で「先制攻撃」の準備を示唆しました。ブッシュは9月に発表した「国家安全保障戦略」いわゆる「ブッシュ・ドクトリン」で、テロ組織や「ならずもの国家」に対しては、「単独行動」も辞さず「先制攻撃」で「自衛権」を行使すると公言しました。アメリカ連邦議会がイラク攻撃を決議したのは、ブッシュの国連演説から1か月後の2002年10月でした。
 アフガン戦争やイラク戦争で、アメリカにとってノドから手が出るほど欲しいのは、中東の石油と天然ガス、そのアクセスのための軍事基地の確保でした。なにしろ、アメリカは世界の石油消費量の4分の1を1国で使い、石油ガブ飲みのアメリカ的生活様式とモータリゼーションの維持が至上命令であるため、1980年1月にジミー・カーター大統領が発表した「カーター・ドクトリン」で、石油は「死活的に重要な国益」とされました。それゆえ、自分のところにない中東の石油も市場力だけでなく、巨大な軍事力を投入してでも確保すべき、アメリカの安全保障上の死活問題になっているのです。
 こうして、ブッシュ大統領は2003年3月17日、先制攻撃となる空爆を行ったうえ、2日後の3月19日イラク戦争に突入しました。作戦名の〝畏怖と恐怖〟は、文字通りの脅迫です。イラク侵攻は迅速で、3週間でイラクを陥落させました。
 イラク戦争で実際に起きたことは、アメリカの占領政策が「イラクの民主化」どころか、イラクの主権も経済も政治も環境も徹底的に破壊したということです。その半面で、イラクの石油の利権を掌握した多国籍の石油産業と軍事の近代化を進めた産軍複合体の軍事産業がイラク戦争で〝濡れ手に粟〟の利益をむさぼったことは間違いありません。


6 核帝国アメリカの地球的規模の核脅迫政策


 アメリカの帝国主義的イデオロギーはトマス・ジェファソンの「自由の帝国」を出発点としています。ジェファソンは、あるところ「自由の帝国」について述べ、またべつのところで「私たちの憲法ほど帝国の拡張と自治のためによく工夫して計画された憲法はなかった」との感想を述べています。
 のちのアメリカの政治家の帝国概念はジェファソンの「自由の帝国」の概念から生まれたものです。リンカンでさえ1856年に「我々は偉大な帝国である」と宣言しています。
 民族自決を唱え、国際連盟を提唱し、第一次世界大戦の戦後処理の立役者の一人となったウッドロー・ウィルソンは、ヨーロッパを模範とした軍事的征服と植民地搾取によって独善的に権力と栄光を求める古典的帝国主義者と違って、アメリカ帝国主義に理想主義的根拠ないしは知的基盤を与えた政治家だった、と言われます。近年、「人道的介入」とか「人道的帝国主義」と呼ばれるもののはるかなはしりです。
 チャルマーズ・ジョンソンは、ウィルソンは外交政策において「理想主義者」にして「キリスト教の伝道師」であって、そのことが「第一次世界大戦の参戦から二〇〇三年のイラク侵攻にいたる外交政策を特徴づける「十字軍」という思想の守護聖人にする」といみじくも指摘しています。

 すなわち、ウィルソンは世界を「民主化」する「全地球的任務」なるものを「人道的ならびに民主的美辞麗句」を用いて正当化することによって、いまもなお「民主主義を輸出するという、形でアメリカ帝国主義の支配力を正当化する現代の思想家たちの創始者」なのです。

 しかし、そのウィルソンの「アメリカの強大な権力を用いて世界を民主主義のために安全にしその安全を維持する国際秩序を樹立しようとする」企図について、ウィリアム・A・ウィリアムズはこう論評しています。「アメリカ自由主義による民主主義の定義」は「白人・アングロサクソン・プロテスタント」にだけ通用するもので、それが民族自決や植民地主義の問題で「西欧以外の地域に適用されるや否やその民主的内容の大半は失われた」と。
 ヘイガンとビッカートンの『アメリカと戦争』によれば、1950年6月朝鮮戦争が勃発するや、アメリカのトルーマン大統領は米連邦議会の演説で格調高くこう言いました。「われわれ自身のためにもアメリカ合衆国は領土も他者を支配することも求めない。… アメリカ人は、われわれが心底大切にしている自由の篝火を世界にもたらすだろう。アリカ合衆国は、自由のため、平和のために戦っている。そして、神はわれわれの成功を祝福してくださるだろう」と。

 トルーマンの演説は第一次世界大戦におけるウッドロー・ウィルソンや第二次世界大戦におけるフランクリン・D・ローズヴェルトの参戦の論理を網羅して継承したもので、最後に神の思し召しによりアメリカが世界で特別の任務を担っているとするあたり、二一世紀初頭のジョージ・W・ブッシュにまでつながる誇大妄想狂的な自画自賛の産物です。
 第二次世界大戦後の世界は、圧倒的な経済力と軍事力、なかんずく核兵器を〝切り札〟とするアメリカ帝国主義の世界支配です。最初の原爆を製造した段階で、アメリカは原爆を独占し、戦後世界を牛耳れると考えました。原爆を独占したため、アメリカでは「われわれには怖いものがない」というムードが高まりました。
 しかし、アメリカの核独占はなりませんでした。アメリカのすぐ後を追って、ソ連が1949年8月、同国最初の原爆を爆発させ、世界を驚かせました。続いて、イギリス、フランス、中国が核を保有するに至りました。
 アメリカは超大型爆弾すなわち水爆の開発を推進しました。核融合爆弾の水爆は核分裂爆弾の原爆よりも1000倍強力です。しかし、アメリカの水爆開発の優位は9カ月で失われました。ソ連も1953年8月に水爆実験に成功したのです。
 こうして、米ソ両国はお互いに相手に非常に大きな打撃を与えられるようになったため、たとえ勝ったとしても、それはあとに何も残らない空しいものになって行きました。核兵器は国家の安全保障につながらず、外交政策を進めるうえであまり役に立たないものだということが分かってきたのです。しかし、核兵器で相手に脅しをかけることはできます。
 核兵器に関して、1960年代を通じてアメリカは「抑止力」という戦略政策を取ってきました。マクナマラ国防長官が定義したように、「抑止力」とは「攻撃者に対して受容不能な大きな損害を与えうる明白な能力を維持することによって … 核攻撃を抑えること」を意味します。核による反撃を怖れて、敵は核攻撃をしてこない、というリクツです。
 核保有の比率がどうであれ、米ソとも第一撃で相手の核戦力を完全に無力化することはできません。核搭載機が数機でも相手の防衛網を突破して報復すれば、非常に高価な代償を強いられることは明らかです。
 このディレンマはのちに米ソの科学者の意見が一致した「核の冬」の関する研究で決定的となりました。人類が地球上に現れて以来、経験したことのない気候上の大変動が、核戦争によって引き起こされるかもしれない。この「大変動」を「核の冬」と呼ぶのです。
 アメリカの宇宙科学者カール・セーガンらのグループは、「核の相互攻撃が大気と気候に及ぼす長期的影響」と題される研究で、超大国間の核戦争は当事国や同盟国に対して死と破壊をもたらすだけでなく、核爆発が吹き上げるチリと煙が太陽光線を遮り、その結果生ずる温度の低下が多くの動植物の種の絶滅を引き起こし、人間という種が生き残れるかどうかさえ分からないことを明らかにしました。
 たとえば、白亜紀の6500万年前の恐竜の絶滅の先例がありますが、これは小惑星の衝突によって長い間大気を覆ったチリが気候の大変動を起こしたことによる、と推定されています。
 イラスト2「核の冬」のイラストは、カール・セーガンの『核の冬』からコピーしたものです。ここでは時間の関係で読んでるヒマがありませんので、あとで説明を読んでいただければと思います。
 米ソ両超大国はもう核戦争をできないことがはっきりしました。この間、アメリカの政治家や軍部当局は、地域戦争で小型核兵器は使えないか、と限定核戦争の可能性を追求してきました。実は、限定核戦争への執着「核の冬」の解明以前から始まっていました。
 アメリカ政府が限定核戦争に踏み切るかどうかを本気で考えたことは、1950年代と1960年代に少なくとも7回あったそうです。
 ブッシュ大統領やトランプ大統領も限定核戦争への意欲を引き継いでいます。ブッシュ政権は2002年1月に「核態勢見直し(NPR)」報告を発表しましたが、これは世界の核軍縮の流れに逆らいつつ、核使用の敷居を下げ、自分だけは「使える核」を製造して使おうという核の単独行動主義の危険な動きです。米国防総省はイラク開戦と並行して2003年3月、アフガン戦争やイラク戦争で多用した特殊貫通弾(バンカーバスター)に小型核兵器を搭載する強力地中貫通型核や小型戦術核兵器の研究開発を盛り込んだ国防予算を提出し、ブッシュ大統領が議会の承認を受けて署名し成立しました。しかし、ブッシュは新たな戦術核兵器は開発しませんでシステムた。一方、ことし2月に発表されたトランプ政権の「核態勢見直し(NPR)」は、2002年のブッシュの「核態勢見直し(NPR」」に回帰し、低威力核兵器あるいは使いやすい戦術核兵器を開発すると言っています。
 最後に、核帝国アメリカにとって、核は何を意味するのでしょうか。クリントン大統領は「核兵器はアメリカの政策の要石」で、アメリカは敵が重要視する広範な資産を危険にさらし続けるために、「十分な規模と能力の核戦力をひき続き維持する」と言っています。
 これに対して、アメリカのジョゼフ・ガーソンは〚帝国と核兵器〛の「日本語版へのまえがき」でつぎのように批判しています。「これは、核のテロリズムと支配の言葉であって、抑止とか防衛の言葉ではない。アメリカの対外・軍事政策の基礎はジェノサイド(大量殺りく)や核のオムニサイド(皆殺し)を引き起こすための準備と脅迫からなっていると言われており、それはいまも事実である」「歴代の米国大統領は誰もが、核兵器を、いまや衰退しつつある米国の地球的帝国を拡大し、維持し、押し付けるために使ってきた」と。
ガーソンは本文でもこう書いています。「最初の核の皆殺し攻撃が広島と長崎に加えられて以来、アメリカにとって核のテロリズムと帝国を維持することの間には、「死の結びつき(デッドリー・コネクション)が生まれたのである」「一般に、抑止はアメリカの核軍備の基本的役割であると長く信じられてきた。真実は、アメリカの核兵器は少なくとも「抑止」という一般に受け入れられている概念と同程度に、帝国を維持するために必要なのである」と。
 もう一度、地図12「世界の非核兵器保有国」を見て下さい。アメリカ合衆国は4000発の戦略核、非戦略核を有し、そのうち作戦配備の戦略核が1650発、非戦略核が150発となっています。作戦配備の核がこれだけあるということは、レーダーの読み違えやコンピューターの誤作動、人のミスやコンピューターのミスが起こり得ることを示しています。シドニー・レンズの『核兵器は世界をどう変えたか』によれば、レーダーの読み違えから、危うく核戦争になりかけたことが5回知られています。雁の群れを敵編隊と誤認したこともありました。小さな読み違えにいたっては、数日に1回の割合で起こっているそうです。
 〝折れた矢〟と呼ばれる事故もあります。米国防総省によれば、1950年から1980年のあいだに核兵器で生じた大事故は27件、小事故は70件に及んでいます。
 1961年に起こった大事故は、核兵器を搭載していたB52が墜落し、ノースカロライナ州ゴールズバロに核爆弾2個を落とした事故でした。2個のうち大きい方は、広島原爆より2,000倍も強力な核爆弾でしたが、6個ついていた安全装置のうち5個がはずれましたが、最後の1つが効いていたため、史上最悪の大惨事をまぬかれました。
 もう一つの大事故は1966年11月、スペインのパロマレスで起こりました。B52と給油機が空中衝突し、5人の死者を出し、4個の水爆を落としました。うち1個は干上がった川底に、2個は人家のある地域に、4個目は海の中へ落ちましたが、これまた大惨事をからくもまぬかれました。
 現在、世界には、地図13「世界の非核地帯」にあるように、6つの「非核地帯」が存在します。「非核地帯」とは、核兵器の開発、製造、実験、配備などを禁止する地域のことで、それを拘束力のある国際条約の締結によって表明したものです。南の①「南極条約」②「ラテン・アメリカおよびカリブ地域における核兵器禁止条約」(トラテロルコ条約)、③「南太平洋核兵器禁止条約」(ラロトンガ条約)、④「東南アジア非核兵器地帯条約」(バンコク条約)、⑤「アフリカ非核兵器地帯条約」(ぺリンダバ条約)、⑥「中央アジア非核兵器地帯条約」(セミパラチンスク条約)の6つです。このように、非核地帯はラテン・アメリカや東南アジアそしてアフリカと南半球全体に広がっています。
 北半球では、⑦「モンゴル非核兵器地帯地位」は、多国間の条約ではありませんが、1国非核兵器地帯として国際的認知を得たものです。それは、要するに、大国の核政策と核拡散を拒否するとの表明でもあります。
 南北朝鮮と日本を含む「北東アジア非核兵器地帯」の構想もあります。1990年代半ば以来、様々な非政府提案が出ていて、2004年にはNPО法人ピースデポが北東アジア非核兵器地帯のモデルを、さらに2008年には民主党核軍縮促進議員連盟が条約案を発表しています。
 朝鮮半島の非核化をめぐる4月の南北首脳会談の板門店宣言、および、6月の米朝首脳会談の共同声明は、朝鮮半島の非核化および平和構築への第一歩とわたしは前向きに受け止めます。朝鮮戦争以来の不安定な敵対関係を外交交渉のレールに乗せたという点で評価できると思います。朝鮮半島の非核化という意味では、北朝鮮の非核化にとどまらず在韓米軍の非核化が求められるので、非常に困難な交渉となるに違いありません。結局、アメリカの「核の傘」に入っている韓国および日本の進退が問われます。
 周知のように、昨年7月、国連で核兵器禁止条約が採択されました。賛成122、反対1(オランダ)、棄権1(シンガポール)、欠席71でした。米、英、仏の常駐代表は条約を批判する共同声明を出しました。アメリカの「核の傘」の下にある日本は対米追従でこの条約交渉に参加しませんでした。
 最近の北朝鮮のミサイル発射や非核化の問題を見ても、決して北朝鮮の肩を持つわけではないが、トランプ政権がアメとムチを使いながら、歴代大統領の既定の路線を突っ走っていることが分かります。一方で貿易の高関税化で中国やEUと貿易戦争が始まろうとしています。トランプの前のオバマのプラハにおける「核のない世界」発言は、無責任なリップ・サービス以外の何物でもありません。オバマほど外国の標的をドローンで殺している大統領はいません。
 米国の元会計検査院長官デイヴィッド・ウォーカーは十年以上前から警告しています。「アメリカは滅亡前のローマ帝国になぞらえられる。その財政状況は『公表されている以上に悪い』。アメリカは『壊れた経済モデルを有している』。財政および国際収支(貿易)、さらには貯蓄、リーダーシップと、四つの赤字に直面している」と。リーダーシップの赤字は、最近の大統領の劣化状況を見れば明らかです。

 ジョン・グレイの「『グローバリズムの妄想』によれば、アメリカでは全人口の10パーセント余のエリート層が、犯罪の多い市民社会から逃れて、高い壁と電子警備装置に守られた警護門付きの民間呼吸団地に住んでいるという。それどころか、ノーベル経済学賞受賞者のジョゼフ・スティグリッツは、アメリカの貧富の格差はもっとひどく、アメリカン・デモクラシーとは「1%の1%による1%のための政治だ」と皮肉っています。スティグリッツはいろいろな数字を挙げていますが、たとえばアメリカでは、上位1%が所有する国富は全体の3分の1以上を占め、上位0.1パーセントの1日半の稼ぎが下位90%の年収とほぼ等しいそうです。堤未果の『貧困大国アメリカ』を読むと、出口をふさがれた中下層の庶民や若者のうめきが聞こえてくるようです。

 核帝国アメリカは、核を守護神に外交と軍事のみならず金融と財政においても、世界を支配するグローバルな史上未曾有の巨大帝国ですが、地球のタイタニック号の運命を背負っていないとは言い切れません。
 日本はアメリカの「核の傘」から脱し、南北朝鮮に日本を加えた「北東アジア非核兵器地帯」の設定に向かうべきです。今回の南北首脳の和解は一つのチャンスです。だが、脱原発の課題同様、現下の安倍政権のもとではそれは困難というよりも不可能ですし、アメリカが日本を「核の傘」からはずすわけもありません。わたしは景気のいい話で気を休めることはできず、この〝バカの壁〟ならぬ〝不可能の壁〟に挑むしか活路はないと考えます。

  

 

(追記)この講演に関連して、書き下ろしのブックレット『核帝国アメリカの世界支配』(編集工房朔発行、星雲社発売)を追って出版する予定です。