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2 メソポタミア・エジプト・インダス・中国の古代都市


 わたしは『都市論 〔その文明史的考察〕 』のなかで、都市は旧石器文化と新石器文化の結合の産物で、その兆候がパレスチナのイェリコ(前七〇〇〇年紀の史上最古の都市遺跡)にあると示唆するルイス・マンフォードの見解(1)を紹介しながら、マンフォードのいわゆる「原都市の制度化された始まり」の「防備をほどこした天幕場と宮祠」が「世俗的な世界から隔離された特別の区画に集まったこと」に「都市のしるし」があり、この二つの施設はたとえばオリエントの古代都市において、王の大宮殿と大神殿というかたちで城砦のなかに引き寄せられて並び立ち、長い期間にわたって「統治の二重組織」を示すことになろだろうと書いた(2)。
 近年の考古学の発掘と研究の成果によりながら、世界の都市の成立について補足しておきたいが、まず当代屈指のエジプト考古学者といわれるM・ビータクによれば、都市と非都市を区分するのは、①高密度の居住(一ヘクタール当たり五人以上、人口二〇〇〇人以上)②コンパクトな住居形態③非農業共同体④労働・職業の分化と社会的階層性⑤住み分け⑥行政・裁判・交易・交通の地域的中心⑦物資・技術の集中⑧宗教上の中心⑨避難・防御の中心―の九つの標識である(3)。
 いわゆる世界の四大文明のなでも最初に都市文明を築いたのは、チグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミアである。メソポタミア考古学の一般的見解では、この地域における都市の成立は新石器時代のウバイド3期(前四三〇〇~三九〇〇年ごろ)までさかのぼるが、この地域に出現した五つの都市のうちエリドゥが最古の都市とされる。都市の成立の基礎は灌漑農耕による小麦・大麦などの穀物生産の余剰で、神殿を中心に指導者・労働力・技術・交易を背景とした経済活動・政治活動・宗教活動の集中する空間として、一〇ヘクタール前後の規模の都市がいくつか誕生している(4)。

 

地図3 メソポタミア・エジプト・インダス文明の都市遺跡

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 その後、メソポタミアではウルク期(前三五〇〇~三一〇〇年ごろ)に、生産力の上昇と社会的分業の進展を背景としてゴードン・チャイルドのいわゆる「都市革命」が進行し、このウルク期の最末期に拙著で素描したような神殿を中心とするシュメールの都市国家が相次いで設立される。メソポタミアはシュメール人による絵文字ついで楔形文字の粘土板記録とともに歴史時代に入るが、シュメールの都市革命を先導した都市のウルクは、ギルガメシュ叙事詩の舞台としても知られ、面積が二五〇ヘクタールで人口は二万三〇〇〇人から四万六〇〇〇人程度と推定されている(5)。
 近年、こうした南メソポタミアにおける都市化に並行して、北メソポタミアでもう一つの都市化が進行していたことが明らかにされている。すなわち、東北シリアのテル・ブラクで、南メソポタミア最大の都市遺跡とされるウルクに匹敵するか、むしろそれを凌駕する規模の都市がほぼ同時期、それも前五〇〇〇年紀末から四〇〇〇年紀初めに出現していたというのだ。ここでは、小型の集落が集中化し大型化して都市になったと想定されてきたウルクなど南メソポタミアの都市形成のプロセスと違って、中央の大型集落の周辺に小型の集落が統合されて都市が構成されていくというプロセスを取っていたようで、南メソポタミア発のウルク型都市の輸出ないしは波及によって北メソポタミアの諸集団が二次的な都市化の波を被ったとする、旧来のいわゆるウルク・ワールド・システム論の見方の再考を迫るものである(6)。
 一方、ナイル川流域の古代エジプトについてのマックス・ウェーバーの「都市なき文明」ないしは「都市の欠如」(7)という有名な学説は、近年のエジプト考古学の研究の成果によってくつがえされ、先王朝時代(前四〇〇〇年紀)の上エジプトのナカダやヒエラコンポリスで都市遺跡が発見されているのが実情だ。これに続いて、前二八五〇年ごろ上下エジプトを統一して第一王朝を創始したメネス王が王都メンフィスを築くが、この第一王朝と第二王朝の時代は初期王朝時代と呼ばれる。
 この間、先王朝時代の王都であったヒエラコンポリスは、初期王朝時代には神殿と王宮とが並立して、かたわらで銅細工や石製壷製作の工房が営まれ、古王国時代に入ると王宮が廃されて街区に姿を変え、街路と並行に設置された外壁で約六ヘクタールの範囲を囲い込んだが、いずれにせよ神殿と王宮を核として都市が誕生したことを物語る好例とされる。エジプトにおける都市の誕生の契機は、この神殿・王宮を核とする例のほか交易による例もあるようで、前者を定型都市とすれば後者は非定型都市といえる(8)。
 ちなみに、王の埋葬と祭儀を目的としたピラミッドは、古王国の開始期たる第三王朝の第二代ジェセル王(在位前二六三五~一五年ころ)がサッカーラに造成した王墓の六段の階段形ピラミッドを最古の例として、この階段形ピラミッドが第三王朝の諸王によって踏襲されたあと、第四王朝の初代スネフェル王(在位前二五七八~五三年ころ)により方錐形ピラミッドが建造される。その次のクフ王(在位前二五五三~三〇ころ)がギザに建造した高さ一四六・五メートル、底辺二三〇メートルが現存最大のピラミッドで、こうした王の神性と支配の正当性を誇示する第四王朝時代の巨大建造物とともに、エジプトは中央集権国家体制を確立した古王国の全盛時代を迎える(9)。
 メソポタミアとエジプトにやや遅れて、前二五〇〇~一七〇〇年ごろにかけてインダス川流域のハラッパーとモヘンジョ・ダロの二大都市遺跡を中心にインダスの都市文明が突如として起こるが、このインダスの都市文明の勃興の背景としてメソポタミア文明の影響が指摘されている。ただ、インダス文明の都市では神殿や王宮は確認されておらず、メソポタミアのジグラットと呼ばれる神殿の聖搭、あるいはまた、エジプトのピラミッドのようなモニュメンタルな巨大建造物は発見されていない。
 モヘンジョ・ダロの人口は三万人ないしは四万人程度で、最初から一定の計画に基づいて建設され、城砦部と市街地の区画に分けられていた。泥レンガの基台の上に築かれた城砦部はインダス川の氾濫や戦時の避難所でもあったらしく、ここには大浴場・穀物倉・集会堂などの公共の建物が集中し、その東に広がる市街地には直角に交わる大小の道路が通じていて、それらの道路で仕切られた各ブロックには焼レンガ造りの住宅が並んでいた(10)。
 インダスの都市文明は前一八〇〇年ごろ崩壊の過程に向かうが、これと踵を接して中国では黄河流域で都市文明が現われる。中国の夏王朝から殷王朝にかけての都城として河南省の二里頭遺跡・尸郷溝(しきようこう)遺跡・二里崗遺跡がある。平勢隆郎は中国の古本に記された殷の諸王の在位年数の試算をもとに、殷王朝の開始を前一五〇一年とすれば、出土遺物の放射性炭素年代のデータで前二〇〇〇~前一六〇〇年ごろの二里頭遺跡は夏王朝の都城で、これにやや下る尸郷溝遺跡や二里崗遺跡は殷代前期の都城だとする見方が裏付けられるという(11)。さらに興味深いのは殷が都市国家であって、殷王は王都から半径二〇キロ程度の管轄範囲をあちこち移動しながら儀礼を行なっていたということが、甲骨文の研究から浮かび上がってくるという事実だ(12)。

 

地図4 長江文明と黄河文明の都市遺跡

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 近年、中国では黄河文明に先立つ長江文明の発見によって、メソポタミアとほぼ同時期に都市文明が誕生していたとする見解が話題を呼んでいる。稲作を生業の基盤とする前三三〇〇年ごろの長江中流域の屈家嶺(くっかれい)文化や長江下流域の良渚文化では、初期都市文明の曙と言われる都市遺跡が注目されてきた。たとえば、屈家嶺文化に属する湖南省の城頭山遺跡は、八ヘクタールの丸みを帯びた正方形をなし、東西南北にそれぞれ城門をもつ城壁遺跡で、その城壁の内部では大型の基壇・墓地・玉器を埋納した多数の甕(かめ)棺などが発見され、また城外には現存で深さ四メートルほど、幅三五~五〇メートルの掘が巡らされていた。良渚文化の中心的都市遺構とされる浙江省の大観山遺跡は、三〇ヘクタールの巨大な人工の基壇の上に、さらに大・中・小の三つの基壇が築かれ、それら基壇の間から宮殿または神殿とおぼしき直径一メートル内外の数列の柱穴が検出されている(13)。
 ところが、さきの城頭山遺跡で屈家嶺文化期の城壁の下部に、先行する時代の大渓文化早期の城壁と溜池が近年見つかり、この遺構が前四三〇〇年ごろの中国最古の都市遺跡のものと判明した。それは針葉樹の森に囲まれた乾燥した台地に立地し、しかもその周辺で城壁が築造される大渓文化以前の湯家崗文化時代 ― すなわち、前四五〇〇年ごろの世界最古の水田も発見された。それ以前の前五〇〇〇年の地層から大量の稲籾のプラントオパールが検出されていることから、稲作の豊穣を祈る農耕儀礼が行われたと見られ、それが人びとを都市へと集中させ都市の誕生を促したと考えられている。その後、さらに神殿とみなされる祭場殿と宮殿とみなされる祭政殿がセットで発見されるに及んで、城頭山遺跡が中国最古の都市遺跡であるにとどまらず、「メソポタミアより古い都市文明の誕生」を告げるものだとの見方も出るに至った(14)。
 徐朝龍によれば、長江文明の屈家嶺文化を継承した石家河(せっかが)文化や良渚文化の初期都市文明期に、黄河中流域で竜山文化が広域に形成されて、いわば両者が鼎立するかたちで影響を及ぼし合っていたが、長江下流域の良渚文化圏が前三〇〇〇年末から大洪水のため崩壊し、石家河文化も衰退の一途をたどり始めたのに対して、黄河中流域で竜山文化の夏王朝が誕生したのは良渚文化の影響による、との学説が最近にわかに中国で脚光を浴びてきた(15)。
 都市文明の誕生は気候変動に関係があるとの見方がある。たとえば、安田喜憲は環境考古学の見地から、前三七〇〇~二五〇〇年の気候変動期において、地球の気候の寒冷化と乾燥化が進行し、水を求めて人口が大河のほとりに集中し、そこに住んでいた農耕民と移動してきた牧畜民の文化の融合により、古代文明と都市が誕生したのではないかとの仮説を立てた。しかし、黄河文明が他の三つの文明に一〇〇〇年以上も遅れているという事実がネックとなって、この仮説は支持されず批判を受けてきたが、黄河文明に先立つ最近の長江文明の発見は、あらためてこの仮説を再検討の課題に乗せるきっかけになったようだ(16)。

 

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