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3 メソアメリカとアンデスの古代都市


 新石器時代に誕生したメソポタミア文明の都市や(もしそれが都市であれば)中国の長江文明の都市を別とすれば、いわゆる世界の四大文明の都市の成立はそれぞれの地域における青銅器時代の開始と時期を同じくしているが、新大陸の中南米で新石器時代の都市文明が独自に栄えたことは特筆すべきことだ。それは前一〇〇〇年ごろメソアメリカ文明とアンデス文明においてほぼ同時に出現した都市文明で、前者の文明はメソアメリカのオルメカ文明を母体とし、後者の都市文明はアンデスのチャビン文明を母体としていた。
 まず、メソアメリカについてみると、村落期の形成期ないしは先古典期(前一五〇〇~紀元三〇〇年ごろ)と都市文明期の古典期(紀元三〇〇~九〇〇年ごろ)との中間の過渡期に、オルメカ文明の重要なセンターとしてサン・ロレンソ、ラ・ベンダ、トレス・サポテスなどがメキシコ湾岸南部で相次いで出現するが、これらがオルメカの中心地域の湾岸で首都のような機能を持っていたかどうかは明らかでないようだ。

 

地図5 アステカ・マヤ・インカ文明

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 サン・ロレンソはメソアメリカ全域で崇拝されていた祭祀センターだったらしく、家の建っていた土製マウンドが二〇〇ほどあることから、祭祀センター内には一〇〇〇人の人びとが居住して支配者や神官に仕えていたと推定され、オルメカの支配者の肖像とみられる巨石人頭像の石彫など独得の様式の芸術作品を生み出した(1)。
 サン・ロレンソの最盛期は前一一五〇~前九〇〇年ごろで、外部からの侵略か内部での反乱か、あるいはまた、火山活動による気候の変化と地殻変動による環境の変化か、理由は不明ながら徐々に衰退していった。これに代わって湾岸地域のもっとも重要なセンターとなったのがラ・ベンダだが、その最盛期は前八〇〇~前五〇〇年ごろとも推定され、当時のメキシコでは最大の高さ三〇メートルのピラミッドや巨石人頭像が有名で、その構築には延べ八〇万人を擁したであろうといわれている(2)。
 前五〇〇年ごろから約一二五〇年もの長期にわたって、サポテカ文明の軍事的・政治的・宗教的な中心地として栄えたのが、メキシコ南部のオアハカ盆地にあるモンテ・アルバンである。それはアメリカ大陸における最初の確認された都市遺跡で、周囲から隔絶した山の頂上部に防御壁を巡らせ、広大な広場を王宮や神殿ピラミッドなどの公共建築物が取り囲み、生活用水の誘導や貯水や山の斜面の耕地の灌漑のための治水の施設などを備えて、最初五〇〇〇人の規模だった人口も前三五〇~前二〇〇年ごろには一万五〇〇〇人、さらに古典期後期の紀元五〇〇~七五〇年のピーク時には三万人を超えた(3)。
 なお、モンテ・アルバンではマヤ地域と同様にメソアメリカで最初の文字表記が使用されている。のみならず、二六〇日暦と三六五日暦を組み合わせ、五二年(二六〇日と三六五日の最小公倍数)を一周期とする、メソアメリカ独得の宗教暦がここで生まれていることもまた、忘れてはならない事柄なのである(4)。
 一方、メキシコ盆地では前一五〇年ごろから、西部のクィクィルコと東部のテオティワカンが頭角を現わし、この二大勢力が盆地内で覇権を競った。だが、クィクィルコが火山の大噴火で溶岩の下の埋もれて破壊され、紀元二〇〇年ごろ完全に放棄されてしまうや、テオティワカンが一手に覇権をにぎり、やがて盆地はおろか南北アメリカにおける最大の都市へと成長し、このテオティワカン文明がメソアメリカの古典期の始まりを画した。
 テオティワカンは当時の世界でも五本の指に入る屈指の大都市で、最盛期の人口は一二万五〇〇〇人から二〇万人ないしは二五万人のあいだ、メキシコ盆地の住民の八〇パーセント以上がここに集中していたと推測され、都市地区は二〇平方キロに拡がっていたことが分かっている。注目すべきは、テオティワカンが宇宙論に基づく都市設計で建設され、その都市設計がトゥーラで踏襲され、アステカの首都テノチティトランでも取り入れられたということである(5)。
 そのテオティワカンの都市設計は、「死者の大通り」と呼ばれるほぼ南北に走る大通りが中心軸をなし、大通りの東側の「太陽のピラミッド」は高さ六五メートル、一辺二二五メートルとメキシコ盆地では最大で、世界の古代文明のなかでも有数の規模の神殿建築の一つであった。この「死者の大通り」の北端には高さ四六メートル、一辺が一五〇メートルと一二〇メートルの「月のピラミッド」がそびえていた。
 また、「死者の大通り」の南北の線は東西の線と交差するよう設計され、この大通りの南側には「ケツァルコアトル神殿」を中心とした「城砦」、並びに、市場とみられる大広場が通りをはさんで向き合っていた。城砦の面積は一六ヘクタールで、政治上あるいは宗教上の重要な儀礼のさいには、一〇万人を収容することが可能だったと推定される。だが、その繁栄を極めたテオティワカンも七五〇年ないしは六五〇年ごろ、内部の反乱か外部の侵略か原因は不明ながら破壊されて廃墟と化した(6)。

 

地図6 アステカ文明とマヤ文明の都市遺跡

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 一方、ユカタン半島から太平洋岸までの南島部で栄えたマヤ文明は、先古典期後期には低地中央部の熱帯雨林の奥深くにあるエル・ミラドールやカラクムルのような都市センターを持ち、前者は高さ七二メートル、後者も高さ五五メートル、とそれぞれ巨大なピラミッドで知られ、エル・ミラドールはマヤ語でサクベと呼ばれる幅広の一段高くなった堤道で周辺のセンターと結ばれていた(7)。
 古典期のマヤ文明は新大陸で唯一の完全な文字体系をもった土着文化で、カミナルフユーをはじめ古典期前期のマヤの諸都市は、当時メソアメリカの巨大都市だったテオティワカンと交流し影響を受けたが、マヤ最大の都市ティカルでは政変が起きた。そのティカルの六万二〇〇〇人やカラクムルの五万人をはじめ古典期後期のマヤの諸都市は数万人の人口を擁し、これらの都市の中心部には王・貴族・従者・工芸家らが住んでいた。中央の公共広場には王の事跡などを記した石碑が建てられ、その周りを神殿ピラミッドが囲むとともに、球技場もまた国家の儀礼に関係する重要な施設で、都市内外にはサクベが張り巡らされていた。なおマヤの諸都市は絶えざる戦争状態にあったようである(8)。
 メソアメリカでは古典期のあとスペイン人による征服までの後古典期(九〇〇~一五二一年)が、北方からの狩猟採集民のトルテカ=チチメカ族の移動とともに始まり、メキシコ盆地のテオティワカンの北西に位置するトゥーラを中心に、いわゆるトルテカ文明が栄えた。この文明の影響はメキシコ湾岸をはじめメソアメリカの広大な地域に放射状に拡がったが、ユカタン半島のトルテカ・マヤのチチェン・イツァーはその波及の一例である。
 トゥーラの最盛期は九五〇~一一五〇年ごろで、一四平方キロの範囲に三万~四万人が居住し、テオティワカンで確立された都市設計の原則に従って、巨大な祭祀センターや碁盤目状の道路が配置され、中心の広場の両側には雄大なピラミッドがそびえていた。そのうちの一つは羽毛の蛇の姿で示されるケツァルコアトル神を祭ったもので、この神はアステカ文明にも伝説や信仰を通して引き継がれた重要な英雄神にして文化神であった(9)。
 トルテカ文明の後継者たる狩猟採集民のアステカ族は、北方から移動してきて一三二五年ないしは一三四五年にテスココ湖の島の上に居を定め、ここに首都となるテノチティトランを建設した。このテノチティトランは「もう一つのヴェニス」とも呼ばれ、長い堤道で陸と結ばれた美しい湖上の都市で、アステカを征服したコルテスの従軍記録者ベルナール・ディアスをして「夢幻の世界」と驚嘆させた、文字通り息を呑むような石造りの大都市であった(10)。
 テノチティトランもまた一〇〇〇年前のテオティワカンをモデルに碁盤目状に設計され、祭祀区域の中心には高さ三五メートルのピラミッドがそびえ、ピラミッドの頂上に軍神ウィツィロポチトリと雨神トラロックの一対の神殿が並んでいた。この祭祀区域の近くには石造り二階建ての宮殿や貴族の邸宅が建ち、階層の低い人びとの草葺き屋根の小屋や木の枝を編んで建物が周縁部に向って拡がっていた(11)。
 また、二五万人とも三〇万人ともわれるこの都市の人口を支える市場は、同じ島の北側にある双子都市トラテロルコとテノチティトランの祭祀区域に隣接して存在したが、なかでもトラテロルコの大市場は毎日二万五〇〇〇人が集まり、五日ごとに特別な市が立つ日には四万人から五万人にふくれ、人の多さだけでなく品物の豊富さもまた驚くべきものだったようだ(12)。
 つぎに、南米のアンデスに目を移すと、メソアメリカのオルメカ文明とほぼ同時期に出現したのが先インカ期のチャビン文明である。先インカ期とは太古の石器からインカ帝国が勃興する一五世紀までの時期を指し、ペルー高地のチャビン・デ・ワンタル遺跡に代表される形成期のチャビン文明は、前一〇〇〇年ごろから前五〇〇年ごろにかけて中央アンデス一帯に拡がった。
 チャビン・デ・ワンタルは人口三〇〇〇人ないしは四〇〇〇人と推定され、地下の神殿・石造建築物・プラットホーム・半地下式広場・彫刻を施した石の柱などを擁する巨大な宗教センターで、ここで多数発見された石彫はジャガーの擬人的表象である獣神やコンドルなどの神話的モチーフを扱い、その建築や石堀などの素晴らしさはチャビン芸術をアンデス芸術の頂点に位置づける(13)。
 アンデスでは形成期のつぎの古典期が紀元前後から七〇〇年ごろまで続くが、この時期の都市遺跡としてペルー南部海岸のナスカ文明ではカワチ遺跡やタンボ・ビエッホ遺跡、ペルー北部海岸のモチーカ文明ではトルヒーヨの近くにあるモチェ遺跡、ボリビアのチチカカ湖畔の高原台地のティアワナク文明ではティアワナク遺跡とワリ遺跡などが知られ、それぞれの地域の都市への発展の核となる祭祀センターであったとみられている。このうち、モチェ遺跡の「太陽の神殿」は高さ四〇メートルのピラミッドで、一億四三〇〇万個の日干しレンガを積み重ねた巨大構造物として知られる。
 そのモチェ遺跡から川をはさんで北岸のチャン・チャンには、チムーの人びとによって後古典期の八五〇年ごろ都市が建設され、その後ペルーの北部海岸を支配したチムー帝国ないしはチモール帝国の首都として、一四七〇年ごろインカ帝国に併合されるまで栄えた。シウダデーラと呼ばれる方形の王宮祉、下位エリートの住居祉、バリオと呼ばれる一般の住居祉、日干しレンガで造られた神殿ピラミッドなどで特徴づけられる大都市であった。
 もともと、インカはクスコに住む小部族で、一二〇〇年ごろのマンコ・カパックを初代として、スペインのフランシスコ・ピサロに征服されるまで一三代の皇帝を数えているが、インカ帝国の驚異的な領土拡大が始まったのは九代のパチャクティの時代で、パチャクティはクスコの都市づくりを定め市内の巨大な石造建築を進めたことでも知られる。クスコは世界の「ヘソ」であり、その中心部に複数の王宮や神殿や公共建築物を擁し、それらのモニュメンタルな空間を構成した建築群は石のブロックを用いた。その中心部の空間の周囲には住民の住居・耕地・倉庫・段々畑や灌漑水路が散在した(14)。
 新大陸で都市が成立した前一〇〇〇年ごろとテオティワカンが登場した中米の都市の変容期の紀元3世紀が、旧大陸でももそれぞれ都市の転換期に当たっていたことから、この新旧両大陸における都市の成立・変容の転換期の年代の一致について、川西宏幸は「広大な海で隔てられていた両大陸のことであるから、偶然の一致ということもありうる。しかし、2度重なればもう偶然ではあるまい」としたうえで、さらに「新旧両大陸で同時に都市を動かすような要因がもしあったとすれば、それはおそらく地球規模の気候変動であろう」と書いた(15)。
 これはかつてルイス・マンフォードが新大陸のマヤ・ペルー・アステカの都市によせて、機能は異なれピラミッドやジグラットを思わせる巨大な神殿、メソポタミアやエジプトのそれに比すべきマヤの象形文字や暦など、多くの文化的特徴が旧世界の古代都市と並行している事実を挙げて、つぎのように書いたことにも通じる問いのように思われるが、どうやらこの問はいまだ解けてないアポリアのようである。

 「新大陸のこの都市複合体は、都市生活に向う原初の素質によるもので、それが遺伝子のなかにあったのであろうか。それとも、もっと神秘的に伝えられたユング説の集団的原型の一例であろうか。あるいは、新大陸の都市複合体は偶然の出来事の驚くべき併発の結果であって、最後に旧世界の都市複合体に近づいたのは全くの奇跡なのであろうか。古代の人類の可動性 ― 海上でさえ ― が明らかになった今日、その道筋を跡づけることはできないし、肯定的な証拠もいつまでも出ないであろうが、都市の観念が遠くから新大陸に達しうることを認めたほうが、より賢いのではないか」(16)と。

 

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