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1 日本の都市の起源によせて


 わたしの『都市論〔その文明史的考察〕』(三一書房)の刊行は一九九七年四月であるが、その前年の一九九六年春に脱稿し原稿を編集者に渡していた。このため、ちょうどそのころからジャーナリズムや考古学界をにぎわすようになった大阪府の池上曽根遺跡にからむ「弥生都市」の議論、ひいてはまた、それに先立つ青森県の三内丸山遺跡の「縄文都市」の議論を反映していないので、この点を少し補足しておきたい。
 拙著は日本の都市の起源によせて、中央の広場を囲む縄文モデル村の環状集落に「まだ生まれ出るはるか以前の都市の胚種」が見られるとし、さらに唐古や纒向などの畿内の弥生の大集落を「ある点では都市国家的な段階」ないしは「都市成立前夜の様相」とする考古学者の言葉を引用しつつも、日本における都市は飛鳥の諸宮を前身とする都城に始まるとのオーソドックスな従来の見解に従い、ヨーロッパのような自治都市や市民の伝統の不在というマックス・ウェーバー的な命題を柳田国男や宮本常一の観察で補強した(1)。
 しかしながら、都城をもって日本の都市の起源とする見解は、最近の弥生都市論の台頭とともに再考が必要となったように思うが、これを検討するのに先立ってまず縄文都市論を簡単に見ておきたい。この議論のきっかけとなったのは、縄文前期中ごろから中期終わりごろ(前三五〇〇年~前二〇〇〇年前)の三内丸山遺跡(青森県)の発掘で、約三五ヘクタールという遺跡の規模の大きさ、一五〇〇年もの長期にわたる継続、多量の遺構や出土物、集落の施設の計画的な配置などの特徴を持ち、ひところ「縄文都市」というキャッチフレーズがマスコミの世界で一人歩きした。
 たとえば、その「縄文都市」の発掘担当者で情報発信元の岡田康博は、三内丸山遺跡の最盛期の人口を五〇〇人としているが、これについては五〇人からせいぜい一〇〇人が上限ではないかという佐原真の反論もあり、それが縄文文化を考え直すうえで重要な遺跡であることは否定できないとしても、そこに見られる「空間利用の計画性」や「人とモノと情報」の集積をもって三内丸山を都市とすることはできず、「都市という言葉はもっと慎重に使ったほうがよい」との佐々木高明の意見にわたしも賛成である(2)。

 

地図1 縄文・弥生時代の都市関連遺跡

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 それでは、弥生都市論の方はどうか。一九八〇年代の後半には弥生時代前期~後期(前三世紀~紀元三世紀)の吉野ケ里遺跡(佐賀県)の大規模環濠集落の発掘に伴い、やはり「弥生都市」のキャッチフレーズがマスコミの世界で取り沙汰された。考古学者のあいだでも、高島忠平が吉野ケ里を「自然集落が地域社会の宗教・政治・経済的拠点として成長した自然発達的な都市」(3)と呼び、金関恕もパレスチナ考古学者の都市の認識から吉野ケ里を「都市」あるいは「都市の前夜」(4)とするなど、都市を示唆する見方も出始めた。
 しかし、近年の弥生都市論のブームに火をつけたのは、何といっても弥生時代中期を最盛期とする大規模環濠集落の池上曽根遺跡(大阪府)の発掘であろう。とりわけ、一九九〇年代半ばに神殿跡とされる大型建物や巨大な刳り抜き井戸が見つかり、出土した柱の根元を年輪年代法で測定したところ、大型建物の建設時期が従来の見方より一〇〇年もさかのぼる前五二年と判明し、この池上曽根遺跡をはじめとする大規模環濠集落を弥生都市とみなす考古学者や研究者の発言や論文が目立つようになった。

 

地図2 池上曽根遺跡の集落配置

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A.首長居館 B.祭殿域 C.工房域 D.一般居住域域 E.空閑地 F.墓域 
1.大型高床式建物 2.円形台地 3.大型掘立柱建物 4.多重環濠帯 5.内濠 6.外濠
乾哲也「畿内大規模集落の構造」、『弥生の環濠都市と巨大神殿』(池上曽根遺跡指定20周年記念事業実行委員会、一九九六年)所収より


 ちなみに、そうした弥生都市の候補と想定される弥生時代中期の大規模環濠集落の大きさを見ると、たとえば吉野ケ里遺跡は四〇ヘクタール、唐古・鍵遺跡(奈良県)は集落規模三〇ヘクタールのうち一二・六へクタール、池上曽根遺跡は集落規模一一ヘクタールのうち七ヘクタール、といずれも広大な範囲を環濠で囲んでいる(5)。
 もともと、環濠集落は水田稲作農耕とともに朝鮮半島南部から北部九州に移入され、しだいに東へと伝播していったとみられているが、吉野ケ里遺跡や唐古・鍵遺跡の集落の規模は突出しているものの、池上曽根遺跡の規模の集落は畿内だけでも四〇から五〇はあるといわれ、必ずしもとび抜けているとはいえない。あくまで推定ながら、人口は吉野ケ里遺跡三〇〇〇~四〇〇〇人、唐古・鍵遺跡二〇〇〇人、池上曽根遺跡五〇〇人~一〇〇〇人くらいと想定されているようだ。
 池上曽根遺跡の発掘担当者の一人である乾哲也は、①不自然な集住が繰り返され、最盛期には一千人以上の人口を擁する②集落は機能別に用途区分され、象徴的建物が存在する③集落の施設の配置などから階層制を見いだすことができる④手工業生産と交易が集落維持に大きな比重を占める⑤大陸の進んだ文化を受容し、一定地域(「国」)の中に存在する数十の集落群の中核をなしていた ― の五点の特徴を指摘し、弥生時代中期の池上曽根遺跡を弥生都市とする論文を相次いで発表した(6)。
 広瀬和雄も首長権力による弥生都市の形成を説き、近年の弥生都市論の積極的主張の旗頭となっている。その論旨は大型環濠集落が弥生時代のきわめて特殊な集合形態で、①一〇〇〇人とか二〇〇〇人の規模の人口の集住②手工業・漁労・狩猟・農耕・司祭・渡来人など多彩な職掌の共生③神殿を中心にした祭祀による共同幻想の創出④首長の居宅とみられる大型建物の存在⑤防御だけでなく内と外の識別の標識としての環濠―などの特徴を挙げ、弥生時代の一般的な農民集落から大きくかけ離れていることから、むしろ積極的に弥生都市として位置づけるべきだとする(7)。

 

表1 大型「環濠集落」と農民集落

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 その広瀬和雄のいわゆる弥生都市たる大型環濠集落には、池上曽根遺跡だけでなく弥生時代中・後期の唐古・鍵遺跡・加茂遺跡(兵庫県)・伊勢遺跡(滋賀県)・朝日遺跡(愛知県)・吉野ヶ里遺跡なども含まれ、これまでの弥生社会の認識を一新する提案である。すなわち、弥生社会は農村だけで構成されていたわけではなく、意識的に農村と峻別される大型環濠集落において、〈もの・人・情報のネットワーク〉の中核に首長が位置し、それをスムーズに運行させるための〈政治的・宗教的・経済的センター機能〉をまかなっていたが、このシステムを起動させていくため多数の人びとを一ヵ所に集住させたものこそ弥生都市だったというのである。
 このような弥生都市論の積極的主張については、吉野ヶ里遺跡や池上曽根遺跡を「原都市形成の時代」(金関恕)(8)としたり、あるいはまた、唐古・鍵遺跡を「小都市的な萌芽をもった大集落」(森浩一)(9)とするなど、やや慎重な意見も出ている。池上曽根遺跡の発掘担当者の一人である秋山浩三も、弥生都市論で都市的要素とされた専業工人の存在・階層性の顕在化・非農民層の高率化・食糧ほかの外部依存などは追認できないので、池上曽根を都市と呼ぶのは妥当ではなく、弥生都市論そのものが都市の指標に適合しないとの見方である(10)。
 都出比呂志は「中心機能・集住・商工業発達・外部依存」の四つを都市の重要な指標と定義し、弥生時代中期以後の吉野ヶ里や池上曽根など巨大環濠集落は「人口の密集」や「手工業と交易のセンター」という特徴から「都市的な要素」を「萌芽的」にもっていたことは認めつつも、この萌芽的な要素が十分に発達して都市に成長することなく、弥生時代の終末期の三世紀の初めから半ばまでに巨大環濠集落は解体し終焉を迎えたとする。それらの「都市的な要素」が一カ所に集められ、貴族や官人層の集住を中核とする本格的な「古代都市」が形成されるのは、七世紀代の飛鳥京の段階からで、それが条坊制をもつ都城として完成するのは藤原京段階である(11)。
 武末純一も吉野ヶ里や池上曽根を弥生都市とする見方に否定的だが、弥生都市そのものの可能性は認め、「都市の諸要素は、ムラの中に豊かに埋めこまれている」とのルイス・マンフォード的な認識をもとに、日本の弥生農村は円形の環濠で始まり、やがて円形の中に首長層のための方形の区画ができ、それが吉野ヶ里や池上曽根に出現しているものの、これは「農村が極限まで展開した姿」であって「都市」ではないとする。そして、円形環濠という弥生農村の外被が解体され、新たに成立した方形の首長層の居宅を中心に、宗教施設や市場を設け手工業民を再編した大集落こそ、弥生都市の候補にふさわしいというのである(12)。
 そうした弥生都市の具体的な候補として、武末純一は弥生時代後期の奴国の中心地の 須玖遺跡群(福岡県)を伊都国の中心地の三雲遺跡群(福岡県)とともに挙げるが、さらに寺澤薫が日本最古の都市とする纒向遺跡(奈良県)もまた、唐古の巨大な円形環濠集落が解体・消滅するのと軌を一に登場していることに着目し、都市の可能性があるとの見方を示している。
 寺澤薫は環濠集落の解体後から藤原京の成立以前の間に、中国の城郭都市に対応する日本的な都市を求め、弥生時代後期の三世紀初めから四世紀前半まで約一〇〇年間にわたって繁栄した纒向遺跡に、都市の前提たる集住の規模・共同体の内と間の分業の進展・権力中枢や祭儀装置の存在など、巨大環濠集落より歴史的都市の諸条件に格段の飛躍がみられ、ここをヤマト王権の最初の都宮であり日本の最古の都市と位置づけるが、加えて纒向以外にも中田遺跡群(大阪府)・足守川遺跡群(岡山県)・須玖遺跡群・三雲遺跡群などが都市的遺跡の有力候補だとする(13)。
 古代史の分野からは山尾幸久が弥生都市をめぐる論争に参加し、一方では前一世紀の池上曽根遺跡を都市とする説、他方では七世紀末の藤原京や八世紀初めの平城京を最初の都市とする説、のいずれにも異議をはさみ、日本における都市の要素の萌芽は弥生時代後期の二世紀末の倭国大乱の時代とみて、それ以後の史上への政治権力の出現後に積極的に都市を認める。こうして、纒向遺跡は「かなり古い時代の都市」であり、五世紀以前の筑紫・吉備・出雲・尾張などにも「地域政権」の「都市」が栄え、六世紀半ばから倭人の国家の形成によって飛鳥が「史上最古の首都」になるとともに、筑紫の那の津など各地に国家権力の主導で「地方都市」が建設されたことは間違いないという(14)。
 近年、纒向遺跡で弥生時代末から古墳時代初めに当たる三世紀前半の大型高床式建物跡が見つかり、同時期の建物としては国内最大の面積で、邪馬台国の女王卑弥呼の宮殿ではないか、と指摘する専門家の意見も紹介されるなど話題を呼んだ。この建物跡は邪馬台国九州説の候補地の一つとされる吉野ヶ里遺跡で出土した建物跡をしのぐ規模で、 邪馬台国畿内説をあと押しする有力な史料との見方も出ている。新聞報道によれば、畿内説の石野博信は「畿内説に立てば、卑弥呼の宮殿とみていいだろう」といい、これに対して九州説の研究者は「今回の発見だけで卑弥呼と結び付けるのには無理がある」と反論するなど、双方の見解の対立を解く決め手にはなっていない(15)。
 邪馬台国の所在地論争はさておくとして、都市の起源をめぐる日本の考古学者や歴史学者の近年の論争をみていくと、①弥生時代中期の吉野ヶ里遺跡や池上曽根遺跡などの大規模環濠集落をもって弥生都市とする②環濠集落解体後の弥生時代後期の纒向遺跡や須玖遺跡群などを弥生都市の候補とする③弥生時代後期に都市の萌芽を認めつつ倭人の国家の形成とともに飛鳥の首都と地方都市が建設されたとする④従来通り藤原京に始まる都城をもって日本の都市の起源とする ― の四つの見方に大きく分かれるように思われる。
 むろん、いずれの見方が妥当かを判断する材料がわたしにあるわけではない。つまるところは都市の定義にもよるし、世界における都市の成立との比較検討も必要であろう。だが、弥生都市の候補とされた大規模環濠集落や環濠集落解体後の遺跡群は、かりに「都市」でないとしても「都市の萌芽」あるいは「原都市」であることはほぼ確実で、いずれにせよ都城をもって日本の都市の起源とする従来の定説の再考を迫るものであった。この問題を提起しただけでも吉野ヶ里遺跡や池上曽根遺跡の発掘、並びに、それに触発された弥生都市論の積極的主張の意義は十分にあったといえるのではなかろうか。

 

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